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2005年01月04日(火) リクエストにお答えして「ガルシアへの書簡」転載

Mac Userの手作りiPod Mini CM(Quick time要)

iPod Miniへの愛情が伝わってきます。
選曲も「Tiny Machine」を選ぶところが憎い。

『iPod』ファンが自主制作したCM、ウェブで話題に(Wired News)




ガルシアへの書簡(原文) 著:エルバート・ハバート

(次の物語は,1899年に、わずか1時間で書き上げられた。 著者エルバート・ハバード はごく平易な文体で書いたのだが、そこには非常に重要な基本的教訓が含まれていたため早くも1913年には原本が4千万部印刷されていた。

 日露戦争中、前線に向かうロシア兵士は皆、 「ガルシアへの書簡」 を一部携えていた。日本軍は捕虜のロシア兵から没収したその本の数から直ちに翻訳すべきであると考えたし、後には勅命によって、武官と文官を問わず、官吏全員に一部ずつ与えられた。この物語はこれまでに、ロシア語、ドイツ語、フランス語、スペイン語、トルコ語、ヒンズー語、日本語、そして中国語に翻訳されている。 おそらくこの他にも多くの言葉の翻訳があることだろう。その教訓は当然ながら、書かれた当時の時勢に適っていたが、今日もなお、さらに耳に痛い向きさえあるように思われる。)

 キューバがらみでいえば、私の記憶の地平線に、近日点の火星のように輝く一人の人物がいる。米西戦争が勃発したとき、反乱軍の指導者と直ちに連絡を取る必要があった。ガルシアはキューバのどこかの山塞にいる。どこであるかは誰も知らない。郵便や電報が届くはずもなかった。

 大統領は彼の協力を得なければならない。しかも早急に。

 どうすればいいのか!

 ある人が大統領に言った。

「ガルシアを見つけられる人がいるとしたら、それはローワンという男でしょう」

 ローワンが呼ばれ、ガルシアへの書簡が託された。「ローワンという名の男」がどのようにしてその手紙を受け取り、油布の袋に入れて密封し、心臓の上にくくりつけ、4日後に夜陰に乗じて小さなポートでキューバの海岸に上陸し、ジャングルに消え、敵国を徒歩で縦断し、ガルシアに書簡を届け、三週間後にこの島国のもう一端の海岸に現れたかを、ここで詳しく話すつもりはない。私が強調したいのは、マッキンレー大統領がローワンにガルシアへの書簡を託したとき、ローワンはその書簡を受け取って、「彼はどこにいるのですか?」と尋ねなかったことである。

 この人こそ、その姿を不滅の青銅で象り、その像を全国の大学に設置すべき人物だろう。若者に必要なのは机上の学問でも、あれこれの指示でもなく、背骨をまっすぐに伸ばしてやることである。そうすれば信頼に応え、迅速に行動し、精力を集中して、任務を遂行するだろう。ガルシアに書簡を届けるだろう。

 ガルシア将軍はすでに世を去ったが、ガルシアはほかにもいる。多くの人手を必要とする大事業を遂行しようとしたことのある人なら、きっと平均的な人間の無能さに愕然とした経験があるだろう。一つのことに集中して、それを遂行する能力、あるいは意欲がない。ずさんな手助け、愚かな不注意、なげやりな無関心、それにうわの空の仕事がお定まりらしい。騙したり、すかしたり、脅したりして、他人の手助けを強要するか、金で買うかしないかぎり、誰も成功は望めない。

 読者諸氏よ、試してごらんなさい。あなたはいまオフィスにいて、六人の部下が近くにいる。その中の誰か一人を呼んで、頼む。「百科辞典で調べて、コレッジョの生涯について簡単なメモを書いてくれないか」

 その部下は静かに「はい」と答えて、仕事に取りかかるだろうか?決してそうはしないだろう。
きっと怪訝な顔をして、 次の質問を一つか二つするだろう。

 「どんな人ですか?」
 「どの百科事典でしょう?」
 「その百科事典はどこにありますか?」
 「ビスマルクのことではありませんか?」
 「チャーリーにさせてもいいんじゃありませんか?」
 「故人ですか?」
 「お急ぎですか?」
 「その本を持ってきますから、ご自分でお調べになりませんか?」
 「なんでお知りになりたいのです?」

 あなたがその質問に答えて、その情報の求め方や、あなたがそれを求める理由を説明した後、その部下は十中八、九、ほかの部下の所へ行って、ガルシアを見つける手伝いをさせるだろう。それからあなたの所へ戻ってきて、そんな人物はいない、と言うだろう。もちろん私はこの賭けには負けるかもしれないが、平均の法則に従えば、負けないはずである。

 もしあなたが賢明なら、「補佐役」にコレッジョの見出しはKではなく、Cであると、わざわざ説明したりしないで、優しい笑顔を見せて「もういい」と言い、自分で調べるだろう。この自主的に行動する能力の欠如、精神的な愚鈍さ、意志の軟弱さ、進んで快く引き受けようとしない態度のために、本物の社会主義者がなかなか現れないのである。 自分のためにさえ行動しようとしない人たちが、全員の利益のために、どれほどの努力をするだろうか?節だらけの棍棒を手にした副社長も一人は必要だろう。土曜日の夜に「クビ」になるのが怖いばかりに、大人しくしている労働者が多いからある。タイピストの求人広告を出せば、応募者十人のうち九人までが、ろくに綴りを知らないし、句読点も打てない。しかも、そういうことを知らなくてもいいと思っている。

 そんな人にガルシアへの書簡を託せるだろうか?

「あの出納係ですが」と、ある大きな工場で監督が言った。
「彼がどうしたかね?」
「会計係としては有能ですが、街へ使いにやると、いつもというわけではありませんが、途中で四軒の飲み屋に寄り、目抜き通りにたどり着いたときには、何の用で来たのか忘れていることがちょいちょいです」

 こんな人にガルシアへの書簡を託せるだろうか?

 私たちは近頃、「虐げられ、搾取されている労働者」や「まともな職を求めてさまよう、よるべない人々」に対する感傷的な同情を耳にする。それにはたいてい、経営者に対する厳しい言葉がつきものである。だらしない役立たずの連中に気の利いた仕事をさせようと、むなしく奮闘して年齢不相応に老け込む雇い主、彼が背を向ければさぼることしかしない「手助け」を得るために、長年、忍耐強く努力を重ねている雇い主。こうした雇い主たちに対しては言うべき言葉もない。どの店でも工場でも、除草は常に行われている。雇い主は、事業の繁栄に役立つ能力のない「手助け」を絶えず解雇して、代わりを採用しているのである。

 どんなに景気が良くても、この取捨選択は続く。ただ、不況で職が少なくなると、その選択が厳しくなって、無能で役に立たない人は、職を追われて、そのままになってしまう。適者生存の原理である。 どの雇い主も自分の利益のために、最も優れた人材、ガルシアへ書簡を届けられる人たちを残そうとするからである。

 私の知っているある人は、非常に優れた資質を備えているが、自分で事業を経営する能力はない。さらにまた、他人には全く役に立たない。雇い主が自分に不当な圧迫を加えている、あるいは加えようとしている、という異常な猜疑心を常に抱いているからである。彼は命令を下すことができず、受ける気にもなれない。ガルシアへの書簡を託されたら、その返事はおそらく、「自分で届けろ!」だろう。

 この男は今夜も職を探しながら街を歩いている。風がそのすり切れたコートを通して、ひゅうひゅうと鳴っている。 彼を知っている人は雇おうとはしない。常に人々の不満を煽るからである。彼には道理が通じない。彼に印象を与えるためには、靴底の厚い九号のブーツの爪先で一蹴するしかないだろう。これほど異常な性格の持ち主は、憐れむべきだろう。しかし我々は、大事業の経営に努め、終業ベルが鳴っても仕事の終わらない人たちににも、一滴ぐらい憐れみの涙をこぼそうではないか。なげやりで冷淡な連中、だらしのない無能な連中、そして恩知らずの連中を統率する苦労で、早々と白髪になる人たちのためにも。彼らの事業がなければ、この連中は皆、飢えて、住む家もないだろう。

 私は言葉が過ぎただろうか?そうかもしれない。しかし世間全体が貧民化した今、私は成功者に同情の言葉を述べたい。この人たちは、勝ち目の乏しい闘いに挑んで、人々の努力を促し、勝利を収めながら、何も得るところがないのである。住むところと、着るものしかない。私は弁当持ちで出社し、日々の給料分の仕事をしてきた。同時に、人も雇っているので、両方について言えることがある。貧困そのものには、何の利点もない。襤褸(ぼろ)は褒めるべきものではない。そしてすべての貧しい人たちが高潔とは限らぬように、すべての雇い主が強欲で高圧的であるとは限らない。

 私が心を惹かれるのは、「上司」がいるときにはもちろん、いないときにも勤めを果たす人である。そして、 ガルシアへの手紙を渡されたら、黙ってその信書を受け取り、愚かな質問をせず、すぐさま下水に捨てたり、そのほか、届けないで処分したりする気を起こさない人は、決して「一時解雇」を受けないし、賃金の値上げを求めてストをする必要もない。文明はそのような人々を捜し求める長い課程である。

 そのような人の願いは何でも聞き入れられるだろう。そのような人はどこの都市でも、町でも、村でも、必要とされるだろう。どこの事務所でも、店でも、工場でも。世界中がそのような人々を呼び求めている。「ガルシアへの書簡を届けられる」人物は、非常に必要とされているのである。


ふみひこ |MAIL