初日 最新 目次 MAIL HOME



半分はネタバレでできています。




 イラスト&二次小説置き場
 小説置場(オリジナル)
  twitter






徒然
壱岐津 礼
HOME
twitter

2014年09月05日(金)
『江戸しぐさの正体』斜め読み

 最初にお詫びを申し上げます。
 実は私が本書を購入したのは「自分自身の興味」のためではないということです。同居している騙されやすい老人が「なんとなく印象の良い気がする」言葉に騙されないよう、読ませることが目的でした。私は「老人に読ませて差し支え無いかどうか」チェックするために目を通した程度です。熟読とはとうてい言えたものではなく、振り返ればかなり読み飛ばしている箇所がありました。
 こうした姿勢での読書は、本に対しても著者に対しても、はなはだ礼を失するものかと存じます。ましてや、こうして感想めいたものを記す人間としてはいただけないにもほどがあります。まずは、その点、平にご容赦いただきたく、ここにお詫び申し上げるものです。

 感想ですが、結論から申し上げると、本書は「江戸しぐさがガセであると既に知っている人」だけが満足し、そこで完結してしまう書物です。
 私が求めていたのは、「江戸しぐさ」にハマってしまいかねない人達のためのワクチンとしての書物です。そういった面では全く不満です。
 「江戸しぐさ」を糾弾する書は、本書がおそらく初めてかと思われますので、今後の同じ著者の手による書なり、他の文筆を生業とされる方の書なりに期待したいところです。
 重ねて申し上げますが、欲しいのは、「江戸しぐさ」という一種の自己啓発カルトの影響力に対抗し得るワクチンとして機能する書物です。「江戸時代にこんな習慣無ぇよwww」と笑いものにする書物なら要りません。むしろそういった嘲弄的な書物ですと、逆に「江戸しぐさ」支持者の結束を強固にして、洗脳解除不能にするおそれを感じます。彼らを一層過激にするおそれを感じます。

 以下、雑感です。
 まず『江戸しぐさの正体』を私自身が読んで引っかかった―――本書の機能を損ないかねないと感じられた部分、二箇所。
 著者、原田氏にTwitter上でも申し上げたのですが、改めて挙げておきます。

 一つは初読で引っかかりました。現在の教育現場における「掛算の順序への固執」を「腐女子のカップリング」に喩えられた部分です。
 この部分の問題点は二つありまして、一点には、「腐女子のカップリングと掛算がどう関係しているのか、一般には解らないだろう」通じない滑ったギャグと化しているというところです。
 二点目として、「腐女子」という言葉の背負っている悲喜劇(当事者にとってはかなり笑えない事態)に対する理解に欠けている、無頓着であると感じられました。
 「腐女子」という言葉は、字面だけ眺めると、なかなかにおぞましい印象がありませんか?最近では実際に、「気に食わない女」を片端から「腐女子」呼ばわりする、つまりかなり程度のひどい罵倒語として用いられる例が多く見られます。この言葉の本来の成り立ちは、少しばかり変わった趣味を持った女性たちが、自らの趣味を「腐っている」と自虐的に言及し、「婦女子」という既存の言葉に引っ掛けて「私達は腐女子よね」と、ユーモアを交えて名乗ったことに端を発します。この出発点のユーモアは、後に周辺で湧き上がった誤解と偏見と嫌悪と憎悪に呑み込まれてしまいました。
 そうした来歴を持つ言葉を、主に「来歴を知らない人」が読む書に、来歴を知らせずに言葉だけをポンと投げ出すのはいただけません。下手をすると「江戸しぐさ」への興味がどこかへ行ってしまって、「この『腐女子』って何だよ?」と、いらぬ興味をかきたててしまいかねません。そして、この危惧のために、私は、同居の老人たちにこの本を読ませられません。

 二つ目は「江戸しぐさ」の中にある「心肥やし」なる表現への言及についてです。「肥やしと言えば肥料」「江戸時代には人糞が肥料として用いられていた」「人糞肥料のために大根まで糞臭いと外国人に忌まれた」くだりです。この部分は、本来「心肥やし」の胡散臭さを知って納得してもらわなければならない層の反発を、逆に招いてしまう危険がある旨、これもTwitterに投稿しました。が、何しろあそこは流れるので、改めてここに記します。
 江戸時代に人糞を肥料として用いていたのは本当です。
 外国人が日本の大根を糞臭いと嫌って食べなかった記録もあります。
 ただし、本当に日本の大根が糞臭かったかどうかは定かではありません。
 人糞を肥料として用いていたのは江戸時代のみではなく、実のところ、これが廃されたのはつい最近、太平洋戦争が終結した後のことです。廃止された理由は臭いではなく、寄生虫の感染源になるから、でした。
 私の母は昭和一桁生まれの農家の娘で、人糞を肥料として用いた畑で採れた大根を、おそらく食べたことがあると思われる人物です。彼女に尋ねてみましたが、大根はうんざりするほど食べたが、戦前戦後で特に風味が劇的に変わったという印象は無かったそうです。
 また、昭和初期まで人糞肥料が用いられていたからには、明治大正の大根も、もちろん糞まみれ(実際には発酵熟成の過程を経るので、そのままの糞ではありませんが)のはずで、近代に来日した外国人も言及していなければおかしいのですが、寡聞にして、こちらは存じあげません。
 江戸時代に来日した外国人といえばオランダ人ですが、当時の欧州人は白人至上主義であり、極東の黄色い人々を見下していたことは想像に難くなく、また、通商のために訪れたカピタン以下の面々は日本に来たくて来たわけではありませんから、彼らの耳目に分厚い偏見フィルターがかかっていた可能性は大いにあります。大根そのものも、西洋大根(ラディッシュ)と日本の大根は見た目も風味もかなり違いますし、聞くところによると味噌醤油のにおいは、慣れない人にはかなり悪臭に感じられる、とのことですので、大根が本当に糞臭かったか、には、疑問が残ります。カピタンらの鼻をひん曲げた犯人は調味料(味噌等)の可能性もあります。
 しかし、ここで一番の問題点は、大根の真実がどうであろうと「江戸の庶民が『江戸時代来日した外国人』と接触できる機会はおそらく無い」という部分です。江戸時代の外国人は長崎の出島に閉じ込められ、江戸城に訪れる時も厳しく護衛が立てられ、庶民とは、まず言葉を交わす機会があるとは思われません。言葉を交わしてもまるで通じない可能性が高いですね。長崎の、出島出入りの業者なら別ですよ?でも、問題は「『江戸』しぐさ」であって「『長崎』しぐさ」ではないんですよ。
 江戸時代来日した外国人がいくら大根が糞臭いとぼやいたところで、それは江戸の庶民には届くはずがないんです。届かないクレームに江戸っ子が振り回されるはずもないでしょう。
 ここを突かれると、せっかく「心肥やし」の胡散臭さを説くために割いたこの章が、逆に「心肥やし」という言葉を強化しかねないのです。
 また「肥やし」といえば「肥料」というのも短絡的な言及で、「天高く馬肥ゆる秋」という言葉があるように(この言葉は紀元前の漢籍に由来するそうです)、「肥ゆる」とは「栄養状態が良い」ことを意味し、肥料としての「肥やし」は、「痩せた」土に栄養を与え、「肥えた」土にするために撒かれるものです。「心肥やし」とはそういう意味だ、と反論されてしまえば、肥料の話をいくら聞かせても無駄です。
 ただ、問題提起として、「商人哲学」であるという触れ込みの「江戸しぐさ」が、なぜ、「肥やし」という言葉を使ったのか?という切り方ができなくもないように思います。「肥やし」といえば「私腹を肥やして云々」という慣用句もあり、商人と「肥やし」が結びつくと、時代劇でよく見る『越後屋』と悪代官の「山吹色のお菓子」が連想されて、実にいただけません。教養を指すのに「他に表現のしようが無かった」とも考えられません。例えば「心養い」とすれば、「心肥やし」よりよほど文字の印象もスマートで、悪いイメージもありません。なぜ「心養い」ではなく「心肥やし」なのか。
 あくまで憶測ですが、「江戸しぐさ」の最初の提唱者、芝三光氏は、実際には伝統的な商家と無縁の人だったからではないか、と、私は考えます。「肥やし」で栄養をつけるという思考がまず商人らしくありません。かといって、農村の育ちならば、「肥やし」はそれこそ「糞尿の加工品」であり、必需品であると同時に臭いものであり、肥溜めの罠として夜道で待ち構えるものであり、日々肩や背を痛める憎い天秤棒にぶら下がる肥桶の中身です。そんなものを良い喩えに使うだろうか、と、これまた疑問です。
 氏の来歴が気にかかったので該当の頁を読み返してみましたがGHQでバイトする前がはっきりしませんね?横浜生まれ、ということらしいので、もしかしたら漁村の出身ではなかろうか、と思い巡らしたりします。ちなみに、食えない類の魚も、肥料の素として使われます。こちらが着想の元であった可能性もあり得そうです。
 更に「心肥やし」に問題提起するとすれば(現代で言う「教養」を指すそうですので)、そもそも江戸時代に「教養」という概念が存在したのか、と問いかけることもできるかと考えます。
 「教養」という概念の日本における成立については、言語史を調べなければなりませんが、おそらく、「教養」という言葉は、近代において、西洋思想を輸入するために造られたものではないかと推測いたします。
 「教養」と言いますと、江戸時代からさらに遡って平安時代には、殿上人は漢籍・古典(萬葉集・源氏物語・諸々の日記群・勅撰和歌集等)を諳んじて、それらの膨大な知識の蓄積をなんと、ラブレターをしたためるために駆使していました。庶民の方はかなり時代が下るまで明確な記録というものが無いのですが、萬葉集に多くの詠み人知らず(名を残すまでもないと判断されたのだろう位の低い人達と推測される)による歌が採られ、時折発見される落書きなどからも、けして知的程度の低い人達ではなかったと推測されます。
 江戸時代には三味線、踊り、唄等、様々な芸事が嗜まれ、貸本屋が繁盛しました。芸事を嗜み書物を読み芝居や落語で物語を愉しんだ庶民は、「心を豊かにするため」に、それらを嗜んだのでしょうか?おそらくは「ただ、そうしたいからした」にすぎません。それらは後世から見れば教養ですが、当時の人々にとってはそんな御大層な看板など必要としない、遊興だったと思われます。
 これらに「教養」なんて看板を押しつける方が野暮というものです。そう、粋じゃないんです。無粋なんですよ、「江戸しぐさ」は。
 先に、「心肥やし」について「商人らしくない」と言及しましたが、商人どころか「都会人らしく」もないんです。都会人に特有の垢抜けた洗練が、「心肥やし」に限らず「江戸しぐさ」全般から感じられないのです。どこか野暮ったいのです。
 このあたり、私のような浅学の輩では「と感じられる」止まりですので、ぜひ、研究者の方々に深く掘り起こしていただきたいと期待しております。

 長々と重箱の隅つつき、まことに失礼いたしました。が、こうしたことは、敵につつかれる前に味方につつかれた方が良いと思うのです。
 私は「江戸しぐさ」批判の敵ではありません。「江戸しぐさ」は嫌いです。消えて欲しいと願っています。私が様々なメディアに触れて知った歴史と異なるだけでなく、野暮ったく、欺瞞と偽善の悪臭を放って、「江戸しぐさ」の五文字を見るだけで吐き気を覚えます。虚偽を以って「道徳」を教えるなど、笑い話にもなりません。腹立たしいかぎりです。しかし、だからこそ、重箱の隅をしつこく突きました。「江戸しぐさ」を打ち砕く決定打となって欲しいからです。
 「江戸しぐさ」というものの怪しさ、きな臭さに危惧を覚えていらっしゃる方は、本書を「こんなものを読みたかったんだ!」「自分もこう言いたかった!」と賞賛するよりも、これが敵を斃す武器たり得るか、検討され、弱点を洗い出し、改められ、さらに鋭く研ぎ澄まされた矛を鋳造された方が良いかと思います。

 また、「江戸しぐさ」に限らず、自己啓発カルトに相対される方の常として、「こんなことも理解できないのか」という、高圧的な教師めいた姿勢で相手に臨む癖があるように見受けられます。高圧的な教師というのは、生徒と教師の関係を正式に結んでいても、良い教師のあり方とは言えませんね?生徒と教師の関係でないのなら、なおさらいけません。相手を萎縮させようとしたり、自尊心を傷つけるようなことはしないであげてください。無意識にそういう態度に出る危険もあります。客観的に、自分の姿勢をチェックして、抑制してください。この落とし穴は、物事をよく知り、理解されている人ほどはまりやすいのです。お気をつけください。
 Twitter上で見て心痛めた意見に「江戸しぐさにハマる人ほど、日本の歴史はどうでもいいと思っている」というものがありました。彼らは「どうでもいい」とは思っていません。自分の帰属する歴史が「こうであってほしい」と夢見ているだけです。夢から目覚めさせるのに乱暴に小突き回さないであげてください。見下さないであげてください。
 彼らは本来は、善良な、善良であるからこそ、嘘にも騙されやすい人達なんです。

 繰り返しますが、今回は、「江戸しぐさ」の嘘を最初から見抜いている人のみが喜ぶにとどまる出来で、これからハマる危険のある人へのワクチンたり得ていません。今後に期待したいと思います。