昼間、赤瀬川源平さん命名の「トマソン」を継承している 飯村昭彦さんの個展に行って来た。 赤瀬川さんは、変容していく都市を記録するという意味だけではなく、 ものを見る時の目の訓練というか、 その目と、それを受け取る時の意識の在り方と言うことに 興味があったのだろうな、と思っている。 街の中にある建造物が作り出す、矛盾や無用の用の片鱗。 それは、天まで昇るかというような階段だけが、 撤去されたビルの跡地に残されているというものであったり、 セメントが詰められた郵便受けであったり、 隣家がなくなった為に剥き出しになってしまった家の横腹であったりする。 わたしは、その飯村さんの写真の前に立ち、 激しい郷愁におそわれていた。 他でもない、そこにある壁や電線のように、 そこで息づいている自分の姿を探していたのだ。 よく驚くほどの誤解を受ける事があるのだけど、 わたしは少なくとも(?)「東京」をこの上なく愛している。 これはとても頑固なことで、いわゆるどこかで誰かが言っている 東京像ではなくて、私がこの目で見て、この肌で感じて愛してきた 「東京」で、他のものであってはゼッタイに駄目なものなのだ。 それは、昔付き合った男Aが忘れられなくて、 その後どんな男も受け入れられないお嬢さんの想いに似ている。 でも、それを聞く方はAとA*がどれほど違うことなのか理解できないから 自分を否定されたように感じて、不愉快になることがあるらしい そう言う時には「ああ知られないようにしなくてはいけなかったな」と 自分の不手際を悔やむ。 困ったことに、それが「東京」であるものだから、受ける誤解は、 わたしがブランド志向なのかとか、反京都なのかとか、 お高くとまった本物主義なのかとか、いうものなのだけど、 決してそういうことではないのだ。 わたしは、見て肌で感じてきた建物の感触や、 アスファルトから予期せず剥き出しになった土の匂いなどの 「わたしの東京」を他の事物と一緒に相対化するのを かなり頑固に拒んでいると言うだけなのだ。 わたしたちは、あの場所から帰る場所を持たなかった。 火事があっても、薬が撒かれても、 そこ以外に帰るところはなかった。 多くは都市というのは訪れる場所である。 何をしても清濁織り交ぜて、飲み込んでくれる 揺籃のようなものだということになっている。 そして、何事もなかったような顔で 無傷の郊外の我が家へと帰ることができるのだ。 その汚濁の中で浅く眠る日々の記憶が 遠のいていかないように、 なにもない空中に手を差し出して掻き寄せてみている。 おまけにその形は心許ないほどに不定形だから、時によって、 さっきはあったはずの思惑をすり抜けてしまったりもする。 形のない、記憶の中の空気は、とても希薄なものなのだ。 なので、意識の中で不意にでも相対化してしまっては 失うものが大き過ぎるので、自ずと慎重にならざるを得ないのだ。 いつも人は、田舎から都市へ移り住んだ人の意識を問題にするけれど (乾ききった都市の路地裏で疲れ切って故郷の川のせせらぎを思う、とか) 都市から田舎へ移り住んだ人の内面までは、言及しない。 幸せでないはずがないからだ。 空気も、水もキレイに越したことはなく、 山を遠くに望みながら車を走らせることは 幸せ以外の何者でもないからだ。 でもわたしは、透明な眩しい光の中に建つ、 郊外の中華ファミリーレストランで、 おそらくチャチなものであろう「北京ダック」の文字をを目にして、 フラッシュバックのように、鮮烈な胸騒ぎを覚える。 子供の頃の渋谷の恋文横町の奥にあった カウンターだけの中華屋の暗い店先で、ぐるぐると回っていた 汚いダックたちや、湿った地面の匂いをリアルに思い出す。 ダクトから吐き出される排気の匂いや 小さな缶に植えられた梅の木の息づかいが まぎれもない、わたしの懐かしい故郷。。。
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