カンラン
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2002年09月27日(金) 右肩に,すいかの種





私はおじいちゃんにとって60歳の時に誕生した初孫だ。

当時は同居していたこともあって,

それはもう連日ものすごい可愛がりぶりだったらしい。

おじいちゃんが噛み砕いて一度‘ぺっ’したものを食べさせてもらい,

お風呂では亀の子たわしのようなもので丁寧に洗ってもらい,

クリスマスにはまだまだ頼りなさげな髪に花飾りをくくりつけておめかししてもらった。

その後別居するようになったものの,

小学校を出るぐらいまで私と弟は毎週末おじいちゃんの家で過ごしていた。

大きなからだのおじいちゃん。





先日の敬老の日のこと。

大陸で生まれ育ったおじいちゃんの大好きな中華料理を食べに出掛けた。

なんだか立派な掛け軸を背にまぁるい机を囲むと昔のことを思い出すらしく,

自分の小さかったころのこと,

家族のこと,

広島にたいへんな爆弾が落ちたという知らせを受けたときのこと,

その後引き上げてきたときのこと。

物語でも読んでいるかのように

ほとんど一言一句変わらない流れを3回繰り返す。

1回目も3回目も,もちろん2回目も,少し目を潤ませたおんなじ笑顔。

そしてどういうわけか私は原爆投下直後の広島で3回生まれた。

お母さんは「どっちもそんだけ強烈な出来事だったんじゃろう。」と言うのだけれど,

おじいちゃんの頭の中では月日なんて超えてしまった繋がりがあるんだろうと私は思う。

私が生まれたという町内放送をお盆最中のお墓で聞いたというのだから,

それはもしかしたらお墓が関係しているのかも知れないし,

暑い夏で繋がっているのかも知れない。

それはおじいちゃんにだってきっとわからないこと。

おじいちゃんはぼけてはいないものの,時々頭の中が混乱するから。

そして3回目の思い出話を終えたあと,おじいちゃんは言った。

「みんなを一度中国に連れて行く。」

きっぱりとした口調で。

あんまりにも突然なことに一瞬家族はみんなしぃんとしてしまいました。

飛行機が墜ちて一家全滅してしまわないように

ひとりひとりが別々の飛行機に乗るのだという計画もあたためていたようです。

結局私達は誰ひとり「長旅は無理だよ。」のひとことを言うことができませんでした。

なさけないことに私はというと,

とにかく雲のようにいつまでも漂ってしまいそうなしぃんを

何とかかき消そうと食器をかちゃかちゃいわせて

円卓に残った中華料理をたいらげることに必死になっていました。





そんなに遠く離れた場所で暮らしているわけでもないのだけれど,

私や弟は小学校卒業後それぞれ寮に入ったりしたものだから

それ以来めっきりおじいちゃんの家から遠ざかってしまったのだ。

週末が突然さみしく静かなものに変わったに違いない。

大きくなってからは年に何度会うだろう。

お正月,お盆,ちょっとした連休。そんなもんだ。

私が大学卒業する年にはちょっとした事件が起きたこともあって,

おじいちゃんを避けてきたわけではないにしても,

そのことが私の中に一切残っていないと言えば嘘になる。





今年のお盆,私は休みを取らずに出勤していた。

お墓参りには私を除く家族5人が出掛けて行った。

おじいちゃんを助手席に乗せて。

その後誕生日祝いにと手渡された手紙には,

「お墓参り,行けなくさせてごめんなさい。」

からはじまる一節がありました。

5人しか乗れない車に自分が乗ってしまったから

私が行けなくなったのだと考えていたようです。

「おじいちゃんはからだがしんどいので,来年からはおじいちゃんが留守番します。」

そんなの考えもしなかったことです。

お座敷に敷かれた布団の上でどれだけの時間,

こんなことを考えて過ごしていたのかと思うとせつなくなりました。

大きかったおじいちゃん。

今はそんなに大きくありません。





おじいちゃんごめんなさい。






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