自分の心のありようが変わるほど近しい人の死に接したのは初めてだったのだと思います。 それまでも葬儀の経験はありますが、どちらかといえば自分にとって遠い人、その死が私の心のありようを大きく変容させることのない人たちでした。
祖父が亡くなった時、私は誰の目にもわかりやすく悲しむことができませんでした。
私なりにひどい痛みを抱えていたのですが、おそらく、傍目には薄情に映ったかもしれません。 それでいいと思いました。 人にわかってもらうために悲しむのではないから。
それからしばらくの間、街で高齢の男性が自転車に乗っているのを見かけるたびに、祖父に見えました。 もう晩年には自転車に乗ることはできなかったのに、です。
さすがにそれは時間とともになくなって、正月に墓参りをして、やっと、終わったと思いました。 祖父の墓前で私が感じたことは、死者の論理と生者の論理は違うのだ、ということでした。 これは本当に直観なので、理解は求めません。
私はそれまで、死者との対話とは、生者の都合の良い捏造だと思っていました。 しかし、そうではないなと今は思っています。 先日、朝起きてきた父親を、一瞬祖父と誤認しました。 そんなはずはないのに、意識は一瞬、まだ祖父が自分で歩けて、居間に顔を出した時のことを再生したのです。
死者とともに、生者は生きている。
「深呼吸する惑星」が私に突き刺さったのは、そういう経験があったからかもしれません。 「ごあいさつ」の中で鴻上さんが書いていた、「死者との会話なんてただの思い出ではないか」と疑問を持つ人は、「死んだ人と本当に会話をしたことがないんだと僕は思います」。 私と祖父は大して会話をするような関係ではなかったけれど、かげろうのように「そこにいる」のだと思います。 いや、生者の言葉では「いる」とは言えないのかもしれない。 とても、言葉にするのは難しいです。 ああでも本当に素敵なお芝居だった。DVD予約しました。
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