本日の結婚式の当人同士はどうでもよろしい。挙式が生田神社だというのが萌えである。神子と景時にもゼヒここで挙式してもらいたい。
まあそんなことはともかく、シャーリーズ・セロンの超増量&ブスメイク(といっても元の顔を知らないのだが)&超絶演技が注目された映画を、DVDで見ました。 クリスティーナ・リッチ演じるレズビアンの女の子が美少年風で眼福です。 実在の女性連続殺人犯を描いた話ですが、なんというか、これはやっぱりラブストーリーですね。JUNEです(笑) ものっそJUNEです。男同士だったらJUNE名作殿堂入りではないでしょうか。 ただ、中産階級のドナやセルビーにとっての「幸福な人生」はBLであって、JUNEではなかった。 「愛のために殺す」「愛のためにすべてを捧げる」「愛のために死ぬ」といったJUNE的な人は、現実問題としては、それ以外に、つまり、恋愛以外に他者から承認される(と感じる)ことができない、ということです。 学歴があれば、認められる。 財産があれば、認められる。 仕事ができれば、認められる。 では、どれも持っていなかったら? たとえ第三者から見れば錯覚に過ぎなくても、カップルの間では「互いが特別」です。 リーはそこにすべてを懸けます。 でも、セルビーは違う。一般的に「良識」と呼ばれる自己保身性を持っているからです。それは、彼女が中産階級に生まれたから、としか言いようがないでしょう。 生活があって愛がある。その逆ではない。そういう人種なのです。 だから、セルビーはリーを捨てます。 BLがJUNEを切り捨てるように。 つまり、消費者である少女達の状況(純粋に心理的なものでも、社会的なものでもありえます)がそれだけ改善されたということです。 時代の必然でしょう。 ドナが「彼ら(※売春婦や麻薬中毒者のようなアンダークラスの人々。彼女の認識では黒人もここに入る)は常に選択を誤る」という台詞があり、一方でリーの「私には他に選択肢なんてなかった」という台詞があります。 自己選択、自己責任、という言葉が重視される現代ですが、はたして、個人の責任・選択というものは「ここからは範囲内」「ここからは範囲外」と常にきっちり決められるものでしょうか。 「選択ができる」ということ自体が、既に恵まれている。 8歳で親の知人にレイプされたことは明らかに彼女の責任ではないし、弟や妹を食わせるために娼婦になったことも、全面的に彼女の責任とは言えない。 教養がないことは、彼女の罪だろうか。 夢ばかり見ていたことは、彼女の罪だろうか。 けれど、不要な殺人を重ねたこともまた事実であり、むしろ、自分の現状になんとかギリギリのプライドを持っていたい、自分を惨めに思いたくないという意地が、悪い方へ悪い方へと駆り立てていたようにも見える。どこからなら引き返せたのか、と、考えられなくなっていく。 しかし、それを責めることができるだろうか。 彼女の行為自体はどう考えても死刑は免れないし、性格にも問題がないわけではない。だが、人はモンスターに生まれるのではなく、モンスターになるのだろう。 余談だが、モンスターというテーマからすれば、銃社会がそうだ、という気もした。リーが窓を叩く音を聞いて、ドナの旦那がナチュラルに銃を持って飛び込んでくるあたりが。アメリカ人はやたらと「自己防衛の権利」を大事にするらしいが、そういうことを言っている限りこの国は核保有国であり続けるだろう。まあ、この際関係ないけど。 撮影日程が厳しかったと監督達のコメントにあり、そのギリギリ感がうまく画面の空気にも生かされていたような気がします。悠長に撮る内容ではないでしょうね。 いい映画だと思いますが、誰にでも薦められる作品ではないです。ただ私自身は、これを貶す人とは喧嘩をしてもいい、と思います(笑)
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