早瀬の呟き日記

2007年01月27日(土) 欲ばり過ぎるニッポンの教育

品物はこれでございますが、以下、あまり関係ないかもしれない与太話を延々書いています。
教育改革は90年代後半からずっと取り沙汰されているのですが、「金をかけないでどうにかしよう」という発想なのが間違っていると思います。

江戸時代についての本を読んでいて知ったのだが、人口停滞期である18世紀がどういう人口サイクルになっていたかというと、経済的理由で結婚できない=子孫を残せない下層農民の断絶・消滅分を、結婚できる上層農民の中から結果的に没落した人々が穴埋めして総人口をキープしていた、ということのようだ。
著者も言っていたし私もぼんやりと考えていたのは、閉鎖システムだった江戸時代の社会から、少子化・人口減少している今の社会が何か学べるのではないかということだったのだが、この部分を見るとちょっと怖いな、というか、こういうサイクルをまさに実現しかねないのがいわゆる「新自由主義」じゃないか、と思うわけだ。
市場原理、というより大雑把な淘汰主義にもとづいて勝ち組の金持ちを優遇し、負け組の貧乏人は退場しろ、という理屈。
実際、ワーキングプアの若者は結婚しづらくなっている。
少子化対策、なんて一応唱えられてはいるが、積極的で実効的な政策が行われているとはあまり思えない。
別に結婚なんてしたいやつがすればいいのだが、問題なのは、こういうサイクルだと、いわゆる学力低下論(ゆとり教育批判)の本来の立脚点である「階層間格差の固定をなくせ」という主張ができなくなるんじゃないか。
一応説明すると、学力低下論の本来の焦点は「だから公立はダメだ」ということではない。一般にはそう受け取られており、結果的に私立志向を煽ってしまったという「罪」はあるが、もともとは「ゆとり教育が実施されると、親が教育費をかけられる裕福な家庭の子とそうでない子とで学業達成に差がつき、ひいては将来の社会的・職業的地位も生まれた階層で固定されてしまう」という点が問題視されたのだった。
この前提には「学歴社会肯定」がある。あまり明言されないのだが、これはつまり「学校的成功で社会的成功を約束される」社会での話である。現代社会がほぼそうなっていることは確かで、その上で、「生まれた家庭環境によって受けられる教育に差が出て将来が決まってしまうのは機会不平等でよろしくない」という主張だ。
しかし、では機会平等な社会とはどんなものか、というと「家庭環境に関係なく、生まれつき頭のいい子がその能力を伸ばせる社会」というのが思いつく。この場合、某江崎氏のような「就学前検診で遺伝子を調べ、頭の良い子には優れた教育を受けさせますよ」というアブナイ発想に正面きって反論できないのではないか。
これに対しては「人間の能力はそんな単純なものではない」という反論が可能だろう。
では「間違いなく知的能力を遺伝子で調べる方法がある」と仮定したらどうだろうか?
そうなると「能力とは、生きていく中で、環境との相互作用で発現する結果だ」という返し方があり得る。
ところで、能力のあるなしはいつ、判明することになるのだろう。
育てると同時に選別する、振り分ける機能を持つところに教育制度の難しさがある。環境との相互作用で発現するものが能力、という前提に立てば、理想的なのは「すべての子どもが、存分に自分の可能性を試せる教育環境を用意すること」で、でも全部の子どもにはさすがに無理な現実があるから(資源的にも時間的にも)じゃあどういう制度設計ならベターだろうか、というのが本来の発想の筋だと思う。わかりやすく言えば、なんで全部の子が一斉に進路を選ばないといけないのか、というようなこと。
ちょっと横道にそれたが、ようは、「(再生産されるものとしての)階層」に対して「生まれつきの知的能力」というものを想定すると、まずいことになりませんか、という話。
だから、たとえ知的能力が遺伝子検査でわかるようになったとしても、「そもそも人間の『生まれつきの能力』などない。能力とは結果である」(だから、すべての子どもに能力を発現する環境を)という立場で通すなら、わかる。
また、18世紀型の「一部を除いて金持ちの子どもも没落、負け組は1代で消滅」社会において教育機会さえ平等なら、「一部」というのがどのくらいかという問題だけが残り、階層の入れ替えが起きるからいいんじゃないの、という話にならないだろうか。あくまでも「すべての勝ち組が入れ替わること」を目指しているのだろうか。
つまり、「機会の平等さえ担保されていれば、ゆとり教育批判は新自由主義そのものは否定できない」のでは、と思ったのだった。
むしろ、親和的なものがないか、とも。
今の政府は新自由主義にもとづきつつもゆとり教育をやめる方向なので、学力低下論者は批判を緩めざるを得ないだろう。学校教育の意義を共同体的性質でとらえる論者だったら、まだまだ行けるわけだ。
学校的成功と社会的成功の関係は統計調査で証明されるものの、環境や「生来の能力」とのそれを証明しようとすると難しい。
頭のいい両親(ノーベル賞受賞者とか、IQ200とか)の赤ん坊とそうでない両親の赤ん坊とを、それぞれ裕福な家庭と貧しい家庭に育てさせて経過を見る、という人道に反する方法でなら検証できないでもないが。

この程度の文章を書くのに数時間かかった私はバカだ。
なんだかいろいろ立て込んできそうな嫌な予感がするけど、友達とも遊びたいし見たい舞台作品が多いし、ああどうしよう・・・(泣)


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琳 [MAIL]