早瀬の呟き日記

2006年08月14日(月) 「競争」は自然なのか?

個人的な話から始めよう。
幼稚園のときの運動会で、私は他の子供と一緒に並ばされた。ある時点で周りのみんなが一斉に走り出し、先生にも追い立てられたので、とりあえず走った。
向こう側まで走ったら旗を持った先生に腕を掴まれ、こっちへ並べと指示された。
なので、並んだ。
「三人で走って三等」と見に来ていた家族が言ったので、後で親戚のおじさんにもそう言ったら笑われた。
意味はわからないが、どうやら不名誉なことらしいと思った。
子供なりに、笑われることに傷ついたのだろう。

幼稚園時代の私は「かけっこ」の意味を理解していなかった。
人は一体いつ、「競う」という概念を見に着けるのだろう。
もう「子供」ではないたいていの人間は、競うことを当たり前だと思っている。特に資本主義社会ではそれが「自然の摂理」だと思われている節がある。「弱肉強食が世のならいだ」とか言う人間も少なくない。
しかし、老人福祉施設で一週間お手伝いを体験して、本当にそうか?と疑問を持った。
「競うこと」はそんなに自然なことだろうか。
むしろ、そちらの方が不自然なのではないか。
お年寄りの個人差は大きい。
車椅子を使う人の割合は他の世代より多く、運動機能の差も大きく、認知症の程度差もかなりある。
従って、すべてのお年寄りを一元的に序列づけることはほとんど不可能であり、他人と比べることには意味がないし必要もない。
これが、人間にとって自然なのではないか?
老化こそ、究極的に自然なのだから。
「人間は皆平等」とか「命の価値は同じ」という主張は左翼的フィクションと思われている(私もそれまではそう思っていた)が、能力差と人間の価値は、それを媒介するシステムがあって関係するだけのことで、人と競うことやそのためのシステムもフィクション(ゲーム)なのだ。
無論、フィクションだから不要とは言わない。これだけの豊かな社会が実現したのは、確かに「競争」の成果である。だが、ある分野の競争にすべての人間が参加しなければならない、というのは、かなり不自然なことだ、と思う。
「誰にでも他人より優位に立ちたいという欲望があるから競うことは自然だ」と言う人もいるかもしれない。
それは正しい。
ある種の競争はそうして生まれている。
しかし、なら「競争で傷つきたくない欲望」や「競争をめんどくさがる怠惰への欲望」の自然さも認めてはどうか。ニートを攻撃する人々に、ルサンチマンを感じるワタクシである。


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琳 [MAIL]