宮崎勤の事件が起きたとき私は中学1年生で、バリバリのオタクだった。(今は漫画やアニメをあまり見なくなったので、「オタク」としてはだいぶ格が下がったと思う/笑) オタクに対する一般人(特に同性)の拒絶的な反応を意識し始めた頃である。だから、「迷惑だなあ」と思っていた。またオタクが嫌われるんだろうな、と。 ところが今は電車男の時代である。 変わったものである。 というか、宮崎被告は「オタク」と呼べるのだろうか。 当時(と言っても事件から数年経っていたが)大塚英志氏が被告と文通していたのが気になっていた。 無害なロリコンが有害なロリコンを擁護する必要は、全くないのに。 ただ、氏が被告のビデオテープの大半が普通の映像だったことを殆どただ一人、伝えたことは興味深い。訳のわからないものには何らかの単純化を行わないと安心できないという心理システムに対する嫌がらせ(笑)だ。実際、私が「ビデオテープのうちアニメやホラーものは一部だったんだけどね」と言ったら弟が「何で向こうの肩を持つの?」と訊いた。 「こちら」と「向こう」。 善と悪。 認識は単純なところから始まる。でも、現実は複雑だ。 認識の単純さが功を奏すこともある。 でも、生きていくには、複雑さに耐えなければならない。 個人的には、死刑判決が出されても仕方のない事件だったと思う。 それは「責任能力」というものがそもそも操作的な観念で、精神鑑定についても同じだと思っているからだ。絶対に正しい責任能力の証明、絶対に正しい正常と異常の区別、というものがあると思わない。何のためにそれが必要か、という理屈があるだけだ。 こういうことを言うと、自称左翼の名が泣くのだが。 基本的に、死刑は暴力の一つだと思う。 しかし、殺人の場合実質的には「償う」ことが不可能なダメージだし、被告に全くその念がないので遺族へのケアも無理である。たとえ「多重人格」だったとしても、反省している人格が存在しないのでは酌量されないだろう。 「危険なもの」を「危険でなくす」ことが刑罰の機能の一つであるなら、存在を抹消することも方法ではある。ただ、どういうプロセスでなされるかの違いが、人間の社会では大きい。 だから、プロセスへの疑問を提出することは、意味があると思う。 少なくとも、「これだからオタクは」「ホラーファンは」「地方の良い家の甘やかされ息子は」「ロリコンは」という単純化よりは、遥かに。
関係ないけど、トーマ君が亡くなってパスカル君が森氏宅に来たようですね。これまたカッワイイ子ですねえ。
|