また帰って来たロンドン日記
(めいぐわんしー台湾日記)
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2004年11月06日(土) |
【ほん】 辺見庸「ゆで卵」 |
辺見庸「ゆで卵」 角川文庫版。
うちのフラットの本棚にあったほん。 以前に住んでいた人の置き土産だろう。 ある日フラットメイトが読んでいて、何となく読み出したほん。
実のところ、表題作の「ゆで卵」は、あまり感じが好きでなく、 途中で読むのをやめた。 あとの短編が好きだ。
うーん。こういうたぐいの話は、今までにあまり読んだことがなく、 最初はすごく違和感があった。 昔は手に取りさえしなかったようなほんだったが、 辺見さんの、情景が浮かんでくるようなあざやかな筆致に なんとも惹きつけられてしまったようだ。
で、このほんが何を俺に訴えるのかといえば、 たぶんそれは「自己肯定」なのだろう。
自己肯定が多ければ多いほど、 俺は外向的で、自分自身ともラポール、信頼感を保ち やりたいことに正直で、どんどんなりたい自分になっていくのだろう。 自分がそういう風に思えることは 今の俺にはものすごく大事だ。
辺見庸のこの短編集、「女と寝ている情景」がよく出てくる。 こういうの、俺、ふつう嫌いなことが多いんだけど、 この人の場合は、なんかいやな押しつけがましさや、 無前提に共有された、つくられた男臭さをあまり感じない。 それどころか、すごくさらっとしていて好きだ。 エッチなシーンを描くというよりは、 単に状況設定だけな感じがする。 そして、このあまりに当たり前で さっぱりとしているこの状況設定が じつは、これらの物語の中では大切なんだろうなぁ。 たとえば、
「あなたには覚えがないだろうか。 夜中に目覚めて、何時間か前にいっしょに眠りについた恋人と、 何時間か前にしたセックス以外のことをだらだらとしゃべりあうのは、 案外に楽しいものだ。」
で始まる短編「ひと」なんか、すごくいいと思う(笑。 なんか、こういう小説を読んで、 特に多少でもセックスが関わる表現をみて 「自分と近い感覚を持っているのかなぁ」なんて思うことは へんな話、今まで一度もなかった。
本人によるあとがきに
「本書の話は皆、寝物語のようなものである。 寝物語というやつは、とろとろ話し話されるものである以上、 生きる元気にも死ぬ勇気にもつながりはしない。 私の書くものはたいていそうだ。」
とある。そして中略して、
「むしろ、明日はぷいっと休みをとるなりして、 朝寝でもきめこみたくなるのではないか。 もしくは休職したくなるとか、休学したくなるとか、 家出したくなるとか、、、、、。 そうだといいな、と私は思う。」
まぁ、俺がもし、正しく勤めに出ていたりしていれば 彼が望んだような選択をしていたかもしれない。 しかし、辺見さん。 俺は元気が出てしまったよ。(笑
自分の話に戻る。
もっともっと自分のことを肯定すると もっと多くのものが得られるだろうか? 自分の中で、答えは迷わずイエスなのだが、 同時に、どうしても自分がもっとも大事にしているもののなかの もっとも具体的なひとつが失われてしまうような気がするのだ。 それが俺の自己承認をはばむ。 そして成長もはばむ。
ただ、現実としては、 もっと自己肯定しなくても、それは失われるかも知れず、 必要以上に家に閉じこもってみても、 インスピレーションは湧いてこないのだ。 やはり、もっと自己肯定する中で、 大切なものを自分なりのやり方で もっともっと大事にしていくことしかできないのだ。
それは途方もなくせつないことなのだが、 しようがない。 そんなものと、どこかしら似たような感じを 俺は辺見庸の短編から感じたのかもしれない。
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