また帰って来たロンドン日記
(めいぐわんしー台湾日記)

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2002年10月05日(土) 友人が亡くなる

 東京の友人が亡くなった。肝臓ガンだった。近年まわりで自殺が多かったから、今回は少し気が楽だ。安らかな死に顔だったらしい。

 彼の顔を思い出そうとするとき、笑顔しか思い出さない。5日に通夜。6日には荼毘に付される予定。両日とも「喪服厳禁」だそうだ。「晴れ着」「ドレスアップ」歓迎。本当に大田君らしい。彼を送るにふさわしい集いになるだろう。俺も台北で晴れ着を着て、気持ちだけ参加して、精いっぱい大田君を偲ぼうと思う。

 友人から送られてきたメール、ここにも貼り付けておこう。


(以下メールから)


 大田君の最後をお伝えしたいと思います。昨夜早朝、前の晩から泊り込んでいた妹さんが出勤されてしばらく後、大田君が病院側に苦しいと訴えたそうです。血圧を測ると上が4、50しかなく、"体の中で何らかの重大な変化が起こったと思われる、近親者の方には至急連絡を"という電話が関係者に入りました。

 私には鹿島君から職場に電話があり、病院に着いたのが多分11時頃。
既に酸素マスクをしていて、息は荒いが間隔が遅く、とても苦しそうでした。その時点では気を失っているか、朦朧としている状態のように見えました。早いうちから駆けつけていた人から聞いた話では、血圧を上げる薬を投与する選択肢もあるけれど、このような症状では逆効果を招く恐れがあるので今は使えないんだ、ということでした。

 予断を許さない状況に陥ったことと多くの人が押しかけていたことから、
大田君は間もなく酸素ボンベと点滴と共に隣の個室に移りました。個室では心電図のようなものが設置され、しばらくすると医師が現れて、本来ならこの波形の幅は画面いっぱいくらいなのだが、肝臓が既に腎臓・肺・心臓を圧迫していてその振り幅が半分くらいしかないのだと説明がありました。

 その時点では詰めかけていた人が20人くらいはいたでしょうか。医師も"いったいどういう人なんですか?"と驚いていました。最後には部屋に入りきらないくらいの人が集まったので、特別に控え室をあてがわれたほどです。

 お昼過ぎ頃、ようやく妹さんが駆けつけてきました。普段は大田君とジョークを飛ばし合う快活な人が病室に入るなり泣きくずれてしまい、
そんな妹さんを見て大田君は微笑んでいました。その後も"大田君!"と言って泣く人に大田君は終始微笑んでいました。多くの人は泣かないで頑張っているのに私などは涙もろいので、大田君のその微笑を見ると却って涙が溢れてしかたありませんでした。時々朦朧としているように見えることもありましたが、そうでない時は詰め掛けた人たちの問いかけにも、笑ったり首を振ったり、小指を立てたりして(!)精一杯こたえていました。

 続々と新しい人が部屋に現れて自分の名前を告げていきました。聴覚は最後まで残りますと医師からアドバイスを受けていたのです。呼吸のリズムはだいたい3つの段階を経てゆっくりになっていきました。リズムが変わる度にナースコールをしました。

 最後の方は息を吸い込む動作がなければもう死んじゃったんじゃないかと思うくらいゆっくりとしていました。そしていくら待っても大田君が息を吸い込まなくなった時、あちこちから「大田君」「大田君」「大田君」という声がかかり、大田君は今までに見たことのないほど深く息を吸い込みました。みな次の呼吸を待ったのですが、それが最後でした。


倉田三平 |MAILHomePage

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