ウラニッキ
You Fuzuki



 『その花の名前は』Century20編草稿3

「でも朔はずっと、そのままなのよね」
 声音がほんの少し、変化していた。
 朔は梢に向けていた目を、梨花子の背中に向ける。
「出逢った時は、あたしのほうが年下だった。いまはだれが見てもあたしのほうがおばさんだわ」
「……うん」
「ごめんね。辛くなっちゃったの」
 ふりむいて女は笑う。
 出会ったころはひまわりのように屈託なく笑う少女だった。
 当時よりはるかに整った笑顔に、いまは苦味ばかりが強い。
「朔が好きよ。でもこの木みたい。綺麗だけどなにも実らなくて、時間ばっかり過ぎて、待つのがだんだん辛くなるの」
「……うん。そうだな」
「ごめんね」
「謝んなよ」
 また微笑まれて、思わず伸ばした手を、けれども梨花子には触れさせずに朔は引いた。
 その様子を哀しげに眺めやって、女は一歩朔に近づいた。
 体温が伝わるくらいに近く、けれども触れ合いはしない距離で。
「――ねえ、わがままを言わせて。約束をひとつ、頂戴」
「約束?」
「あたしがいまよりもっとおばさんになってから、一度だけ、会って」
 囁いた唇が震えていた。
「あたしは馬鹿だから、そうしないときっとあなたを忘れてしまう。憶えていたらいつまでも哀しいから、記憶を捨てたくなってしまう。でも、そんなの嫌じゃない」
「りか」
「朔を好きになったあたしまで、捨ててしまうの悔しいじゃない。だから、会いにきて」
「……それで、梨花子がいいんなら」
「ありがとう」
 女はもう一度、笑う。
 今度の笑顔は、昔のものによく似て見えた。
「そうね、この庭に、梨をもう一度植えてみるわ。今度はがんばって育ててみる。……十八年たったら、実がなったかどうか、確かめに来てくれる?」
「十八年後の、秋、だよな。わかった。必ず来る」
「約束ね」
「ああ」
 女が目を閉じたから、彼女が望むものを朔は与える。
 そしてまぶたがふたたびあげられるより先に、背を向けた。縁側から家に入り、鞄ひとつを拾い上げて、玄関で靴を履く。追ってくる気配は、なかった。それを寂しいと、思う気持ちは薄い。
 いつか来るだろうと、もうずっと、覚悟だけはしていたからだ。
(もう、慣れた)
 その呟きが強がりに響かないことを願いながら、瀬能朔は相棒の待つ街に向かって歩き出した。
 それでも自分には、まだ帰れる場所がある。


 ――あの街の桜は、もう散ったろうか。


【3】

 高都匡との会話の中で、今年が十八年めだったと思い出したのは、8月もなかばを過ぎるころだった。約束の季節にはかろうじて間に合っていた。
 たくさんの女が自分のそばをすり抜けた。たくさんの約束が残った。果たされた約束、果たされなかった約束、いまだ来ぬ約束――
 それでもそのひとつひとつを大事に憶えていたいと、思うのだ。
 思うの、だが。
「朔はもう少し、約束の安売りを自粛したほうがいいね」
 大真面目な顔で高都匡が忠告した。それは正しいと、朔自身も思う。もともと物覚えがいいほうでも、几帳面なほうでもないと自覚はしている。朔が忘れずとも、約束を交わした相手がそれを忘れてしまう可能性も、いつだってある。
 それでも約束に頷いてしまうのは、せめて自分が存在したことを、わずかにでも残したいと思ってしまうからだろう。
 高都匡のように笑みを浮かべて超然と在ることは、朔には出来ない。
 ――だから。
 10月の晴れた日、瀬能朔は自宅をあとにした。行ってきますと、軽やかな声を背後に投げて。
 約束をひとつ、果たしてくる。匡にはそれだけを告げた。


 十八年の歳月は、古い住宅地をすっかり様変わりさせていた。背の高い鉄筋の集合住宅がいくつも建って、空が記憶よりずいぶんと狭い。それでも一軒家が立ち並ぶ一角では、昔とおなじたたずまいを見せている家屋が多くて懐かしかった。
 おぼろげな記憶を頼りに目指した家も、ありがたいことに変わらずそこにあってくれた。だが近づいてみると表札が消えている。門自体もずいぶん薄汚れて、人の暮らしている様子がない。
(……ま、こんなもんか)
 肩をすくめて、それでも朔は開いたままの門から敷地に足を踏み入れた。裏庭にまわるとすぐに、甘いにおいが鼻をついた。
「う、わ……」
 思わず声が漏れる。
 視界を占める、鈴生りの薄茶色の果実。
 枝いっぱいの、梨の実、だった。
「すっげぇ……」
 旨そう、と続けようとしたところで、背後からかすかな足音が届いた。
「梨花子?」
 十八年前に別れた女の名を呼んで、朔は振り返る。
 だが見つけたのは、予想していた中年の女の姿ではなかった。
「……梨花子……!?」
 再びその名を、違う感情をのせて呼ぶ。
 そこにいたのは少女だった。洒落けのない紺の制服、ふたつに分けて束ねた髪、美よりも理知を感じさせる顔立ち。別れた春よりなお若い、けれども確かに懐かしい少女。
 出会った秋と寸分たがわぬ姿。16歳の篠原梨花子がそこにいた。

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おーわーんーねえ〜(泣

合計200枚行かない程度の話の番外が30枚近くなりそうなのって、どうなのかしらねぇ……

2003年08月08日(金)
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