私の人生観を、映像で示すなら、「海の中に入り込む階段」である。
大海原に透明なプラスティックの丸い筒、その中を一段一段降りていく。
そんな映像が見えている。
見渡す限りの青い海に、何本も何本もストローが刺さっている。
ななめ45度に刺さったストロー、飲み口の幅は2メートル半もあって人がすっぽりと入るくらい。
ストローの材質は透明、幅は分厚い。
海の底に向って階段が一段一段、ずーっと見えなくなるくらい続いている。
丸い筒がずっと伸びたストローは、手を伸ばせば両端は触れないくらい、十分な幅かある。
階段も透明で、最初は戸惑うけれども、わずか数センチの階段を毎日自動で下ろされていくから、階段を下りることにもそのうち慣れてきてしまう。
海面に近いときは太陽がおもいっきり降り注ぎ、明るく気分も晴れやかである。
一歩一歩階段を下りていくと、徐々にプラスティックの外は暗くなってくる。水圧も高くなってきて、少しずつ筒も心なしか狭くなってくる。
丸い筒は、突然壊れることもあるし、いつ壊れてもおかしくはない。
突然の事故、病気、不注意などによって命が止まることがある。
10メートル下った時、上で壊れても助かる確率は高い。
しかし、50メートル下った時、同じ上で壊れると死ぬ確率は高い。
階段は水圧で狭まっていき、必ず丸い筒は壊れる。
恐怖しかない絶望に向って、今日も一歩一歩階段を下りていく。
それなのに、人は海の底を見ずに、同じく海を潜っていく丸い筒にいる他人ばかりを見ている。
携帯やスマホで連絡を取ってみても、相手の筒の中に移動できる訳ではないのに、錯覚に酔いしれている。
筒がいつ壊れるか、が命に係わる第一優先事項なのに、他人の筒と行き来できない他人のことばかり気にしている。
そして、恐怖しかない絶望が潜む、階段の真っ暗な行き先を見ようとはしない。
親鸞聖人が仰ったように、他人を正義で思い通りすることなどできはしない。ニーチェが言ったように、他人と私とは決して交われないほどの隔絶がある。
階段を下りれば下りるほど、死の確率は高まっていく。
丸い筒が狭まるのは、運動能力の低下、老化、老眼、気力の低下などで嫌というほど知らされている。
なんとかそれを無視して、私達は隔絶した他人ばかりに目を向けている。
なぜ毎日数センチ階段を下りなければならないのか、それはどれだけ考えても判らないまま、
なぜストローで他人と隔てられているのか、それはどれだけ考えても判らないまま
けれども、階段の先を見ようとすることはできる。それは古典教養を身に着けること。
その階段を今日も1つ下りていく
丸い筒が割れなかったことに感謝しながら、眠りにつく。