「今日も朝、目覚めることが出来て、感謝だねぇ〜。そういう歳になったんだねぇ〜」
という声がラジオから流れてきた。
早朝、踏切のカンカンカン!!
という音の中で、己の肉体に、感謝の言葉をすり込んでいる、のを想い出した。
肉に塩をすり込んで、生ハムにするように
肉に感謝をすり込んで、生きる屍(しかばね)に
するのである。
生きる屍はもう死にはしない。
だから、感謝を隅々まですり込んだ肉体と心を持てば、死は怖くなくなる。
そういう死からの逃避、死の受け止め方があり得る。
死の恐怖、死の悲しみに捕われて、バタバタをもがき苦しみたくない
死の恐怖、死の悲しみに捕われて、やるべきことが出来なくなりたくない
生きる屍への大きな動機だ
けれど、肉体という物質と、感謝という心を一体化させる処に欺瞞が潜む
物質はあくまで物質に過ぎない。その根源に感謝などありはしない。
根源に感謝を置きたいがために、神に宇宙を創造させ、仏に輪廻転生からの解脱という超越的な能力を与え、二柱の神々に生と死を司らせる。
それらは、全て物質の根源に精神性を倒置し、欺瞞に身を浸らせたいがために過ぎない。
タレースが万物の根源に水としたのも同様であり、デモクリトスの原子も同類に過ぎない。
人類は物質の根源を現在でも完全に摑みきれていないのだから。
全て物質の根源に精神性を倒置することは、欺瞞に過ぎないのだ。
なぜ、ブッダは、イエスは、ムハンマドは「愚かさ」を排除すべきとしながらも、こうした全ての物質の根源に精神性を倒置するという欺瞞上の「愚かさ」を取り上げなかったのだろうか。
神は否定しながらも仏を肯定する。
無からの創造神を肯定する。
神の声が世界の規則であることを肯定する。
どうしてこのような欺瞞に倒錯するのを許すのであろうか。
ポツン、と、その何もない地点に立つことを薦めないのであろうか。
彼らもまた、死の恐怖から逃避する生きる屍をすくい取ろうとして、いつの間にか死に囚われてしまったのだろうか。
空は青い。
ただ、ただ、青い、だけなのだ。