「うた子、今日は調子どーお?」
3ヶ月も毎日毎日いやになっちゃう。
わたしは苛立ちを隠さずに首をつよく横に振る。
だいたいママは無神経。 毎日聞いたって変わらないかもしれないのに。
かなしそうに睫毛を伏せるママを横目に、もも色のデザート皿の上で
ため息をつくみたいにそよそよと揺れるプリンにざっくりスプーンを割りいれたら、
ガラスのお皿にぶつかって、スプーンが金属特有のきんきんした音をたてた。
音は聞こえるし、わたしの聴覚は前よりずっと敏感になったぐらいだ。
ちょっとした音がいちいち世界の終りみたいに騒々しい。
「うた子、それ食べたら算数もちゃんとやるのよ」
ママが玉ねぎを刻みながら後ろすがたでいやなことを思い出させるから、
わたしはプリンのお皿を持ってじぶんの部屋に引き上げちゃう。
階段を駆け上がるじぶんの足音はちゃんと聞こえるのに、
わたしの声はぜんぜん出てこない。 まったく、ぜんぜん。
麦が出て行った次の日からわたしの声にかさぶたが被ったみたいだ。
わたしの声も、麦もどこに遊びに行っちゃったんだろう?
また戻ってくるのかな。 麦はいつ帰ってくるのかな。
麦とわたしは生まれた時からずっといっしょだったから、
彼が足元にまとわりついてこないのはすごくすごくさみしい。
毛玉を飲み込んで吐いちゃう彼のすがたが見れないのも、
まるくなって寝ちゃう麦のとなりでお昼寝ができないことも、
麦が晴れた日曜日みたいに平和な伸びをするのも見れないことも、
そんなことがぜんぶとてもさみしくてこころ細い。
麦がいないのはかなしいけれど、
声が出なくってもわたしの毎日はそんなに変わらない。
お隣の立花くんが算数を教えてくれた時にありがとうが言えなかったり、
お風呂で気分がよくってだいすきなうたを歌えないのは変なきぶんだけど。
4年3組のみんなも変わらない。 でも世界はちょっとよそよそしくって
わたしと麦だけ、世界の淵から落っこちちゃったみたい。
麦が帰ってきたらだいすきなささみをいっぱいあげる。
はちみつ色のからだはきっとぐしゃぐしゃに汚れてるだろうから、
いやがる麦を思いっきりわしわしお風呂場で洗って
とがった顎の下をきもちよく撫でてあげよう。
さっと意識のすみっこで麦がちいさくにゃんと鳴いたきがして、
麦がわたしのほっぺたをざらざらした舌で舐めてくれたのを感じたから
どっしりと重たい頭をもたげて、部屋を見回しても麦はいなかった。
ほっぺたにブラウスのあとがついてるからわたしは寝ちゃったみたい。
宿題の「少数のわり算」もぜんぜんすすんでない。 夢なのかな。
でもたぶん夢じゃないんだ、なにかまったくべつのものだったんだ。
わたしと麦のこころはいつだってとても近いから
麦がなにか伝えたいときはわたししかいない。
わたしは麦の伝えたかったことをはっきり知った。
パパもママも知らないことを知っちゃった。
重たいこころを引きずって、夕ご飯の香ばしいにおいにつられて下に降りたら、
会社から戻ったパパがビールを片手にテレビの野球中継をみてる。
「お、うた子、パパが算数教えてやろうか?」
なんて上機嫌で言うパパを無視して
お茶碗がならんだじぶんの席についたら
まぶたがぎゅっと熱くなってわたしはちょっと鼻をすする。
「……麦がお別れにきたんだよ」
パパがスローモーションの映画みたいにわたしを眺める。
台所で菜ばしを握ったままのママが目をおおきくして振り返った。
ふたりともばかみたいに口をあんぐり開けてわたしをみてる。
「もう帰ってこないんだって」
ママは右手を口にあてて、パパはからだを乗り出すようにして
やっぱりわたしをみてる。 ママの目がちょっとうるんでいたけど、
わたしの目はもっと大変だし、きっと顔は真っ赤で、喉の奥がかゆくてすごく苦しい。
「わたしの麦が死んじゃった……」
わたしに声が戻ってきたのに
なみだが膝の上にぽつぽつと落ちてとまらなかった。
執筆:東