小さい頃からよく寝る子であった。
子守歌も、寝る前のお噺も必要とせず、枕に頭を付けたと思ったらすぐに寝息が聞こえてくる、そんな子どもだった。
といっても、いわゆる「よい子」というのではなく、いたずらもしょっちゅうしていたが、あるとき、激怒した父から、押入に閉じこめられるというお仕置きをされた。
普通なら泣き叫び、許しを請うのであろうが、いつまでたっても泣き声ひとつ聞こえないため、心配した母がそっと覗いたら、ぐっすりと眠り込んでいたらしい。
しかも、夢の中でごちそうでも食べていたのか、よだれまで垂らして…。
ストレス社会と呼ばれる現代で、特に体調もくずさず、周囲に毒も吐かず、酒にもギャンブルにもおぼれずにいられるのは、たぶんこの「眠る」という行為がスムーズに行われているおかげではないかと思う。
更にいい夢でもみて目覚めた日には、一日中気分がいいってものである。
「安上がりなストレス解消法ね」と妻は笑うが、まったくその通りで、いつの頃からか、妻と私とは、お互いにみた夢の自慢話などし合うようになっていた。
もちろん、圧倒的に私の方が自慢する機会が多かったのである。あの日の朝までは……。
その朝、いつにも増して目覚めは快適であった。直前まで浸っていた夢の世界は、今まで味わった中でも最高のものであった。
頭の中で反芻し、俺はその充足感を刻みつけた。さっそく妻に話さなくては。
ベッドから飛び起き、階下で朝食の支度をしているであろう妻の元へ急いだ。
「おーい、聞いてくれ」
「朝から大声出して、どうしたの?」
キッチンの方から妻が応える。
「す、すごい夢をみたぞ」
早く話さないと忘れてしまう。はやる気持ちが足の動きを妨げ、あっ、と思ったときには、階段の中程から階下の床まで一気に滑り落ちていた。
「あなたっ!大丈夫?」
あわててキッチンから駆けつけ、心配そうに覗き込む妻の顔に、無理矢理作った笑顔で応えたが、夢の記憶はすでに消え去り、目覚めの快適さは、尻の痛みにとって代わっていた。
「あーあ、すごくいい夢だったんだけどな」
「何いってるの。早くしないと、遅刻するわよ」
会社に着いてからも、朝みた夢を思い出そうと努力したが、思い出せるのは「すごくいい夢だった」という曖昧な記憶と、今も残る尻の痛みだけ。まあいいか。眠ればまたみることができる。
その夜は早々とベッドに潜り込んだが、妙なことに眠りにつくことができない。何度も寝返りを繰り返すうちに、朝を迎えてしまった。
実際のところ、少しは眠ったのかもしれないが、眠ったという充足感を得られないのである。
今までの眠りが快適過ぎたのかもしれない。長い人生、こんなこともあるのだろうと思ってはみたものの、さすがにこの状態が三日も続くといろいろ支障も出てくる。
立て続けにつまらないミスをする。
エレベータのボタンを押し間違え、ひとつ下の階で降りてしまう。
会議中にぼんやりとしてしまい、隣の奴が指名されたのに、自分が返事をして失笑を買う。
家では、妻への態度がぞんざいになり、夕食のおかずを一品減らされるはめになる。
きょうも、客先との打ち合わせ時間を1時間も間違えてしまった。
おまけに契約書を置き忘れ、あわてて取りに戻ったが、「うちとの契約は、お宅にとってみればゴミみたいなものなんでしょうねぇ」と、嫌みを言われる。
帰社してみれば、すでに客先からは報告済みで、上司にはさんざん小言を言われる始末。
酒でもひっかけようと居酒屋に入れば、他人の喧嘩に巻き込まれ、あやうく警察に連れて行かれそうになる。
あまりの疲労感に、いつもなら座ることもない帰りの電車で居眠りをしてしまったらしい。
らしい…、そう、眠っていたという自覚はない。
いきなり脇腹に激痛を感じ、そのときの体勢から、居眠りをして隣の女性にもたれかかり、痴漢と間違われてひじ鉄をくらったということが、おぼろげながら理解できた。
『眠いのに眠れないのは辛い。
眠れるけれど眠った実感がないのはもっと辛い・・・』
ある友人の台詞であるが、我が身のことになるとは夢にも思わなかった。
夢…、あの日から夢さえみなくなってしまった。
「もう我慢できない。おい、あれはどうした」
「あれって、何?」
「ほら、田中が海外出張の土産にくれた睡眠薬」
「あんな怪しげな薬、まさか飲む気じゃないでしょうね」
「怪しげだろうが何だろうが、俺は眠りたいんだ」
「だめよ、あなた!」
妻が止めるのも聞かず、俺は睡眠薬のビンを開け、中の錠剤を手のひらに移した。
何粒かって?そんなこと知ったことじゃない。眠れりゃいいのさ。
怪しげに輝く黒い錠剤。俺は口の中に詰め込み、一気に飲み下した……。
「……ん、……」
「あなたっ!」
「どうやら気が付いたようですね」
妻の声に続き、聞き慣れない声がした。
「鈴木さん、聞こえますか?」
「…え、ええ。…ここは…どこですか?」
「病院ですよ。ご自宅で階段から落ちて意識を失い、救急車で運びこまれたんですよ」
「救急車……ですか?」
「そうです。救急車で運ばれたんです。その後、あなたは三日三晩眠り続けていたんですよ」
「眠って……いた…」
「ご気分いかがですか?今先生を呼んできますからね」
「奥さん、よかったですね」
白衣の女性は、妻に軽く会釈して病室から出て行った。
「眠っていた…、俺は今まで眠っていたのか?」
「ええ、あなた。やっと目が覚めたのよ。
三日三晩ずっと眠りっぱなしだったから、どれだけ心配したことか。
よかった。目を覚ましてくれて、本当によかった……」
頬に涙を伝わらせながら、妻は同じセリフを何度も繰り返した。
ほとんど寝ていないのだろう、化粧気のないやつれた顔からも伺うことができる。
いっきに10歳は老け込んだようにみえるけど、それでもかわいいよ、ハニー。
そんなことをぼんやりと考えながら、自分の中にワクワクとした気分が生まれてくるのを感じていた。
ふふ、これでやっと眠れる。
執筆:ぺち