誰もが知っての通り、しあわせとは目に見えないし、箱につめて保管することもできない、なんともつかみどころのないものだ。
その上、たちが悪いのは、しあわせの瞬間にはしあわせと感じないで、過ぎ去った頃に、「あのころはしあわせだったんだなあ」などと失ってしまったものに歯噛みするようなことさえあることだ。
私という人間は、どちらかというと、幸薄いというよりも、しあわせであるということを実感する能力に劣る人間だと思う。 そんな私だが、今、ここにあるしあわせは、せめて書くことによってつなぎとめておきたいと思う。
実は今日は私の30歳の誕生日だった。
30歳を迎えてみての感慨なんて、特にない。 未知の領域だなっていう感じだけど、そんなに嫌な気分じゃない。
それどころか、私は年をとるごとに、私の誕生日なんて、ちっぽけな祭日を覚えていて、大切に思っていてくれる人の気持ちが嬉しくてたまらなくなってきた。 誕生日は、私をこの上なく幸せな気持ちにさせてくれる。
この春から私は新天地での生活を始めた。 私は決して愛想もよくないし、つきあいもよくない人間だ。 その出会ったばかりの私の誕生日を何人もの人が温かく祝ってくれた。 それは、私がここにいることが許されているということを感じさせてくれた。
遠くの友達も、メールをくれた。 数週間前、「ミソジ、ミソジ」と私を馬鹿にした妹からも「いい一年になりますように」って殊勝なメールが届いた。 ちゃんと私はお祝いの気持ちを送り返せる人になんなきゃなと思う。 誕生日が覚えられないとか言ってないでさ。
そして、私が新しい生活の中で、こうして安定してしあわせでいられるのは、ある人の支えが大きいと思う。 その人なしでは孤独や後悔とか、そういう黒い気持ちに支配されていたんじゃないかと思う。 その人も私の誕生日を祝ってくれた。 会うことはできなかったけれど、CDと、手紙と、バラの花で形作られたケーキが届いた。 とても仕事が忙しく、毎日朝から晩まで働いて、休みも月に数日あるかどうかだということを知っているから、私のために、プレゼントを考えてくれたり、荷造りしたり、そういう手間をかけてくれたかと思ったら、本当に嬉しくて涙が出た。
出会ったのは今年の1月30日。 それからまだ6回しか会ったことがない。 すごく遠くに住む人。 でも、メールは毎日届いて、私から送ったメールもあわせて全部で900通を越えた。
その人がいなかったら、私はこの新しい土地で、孤独と後悔と不安に包まれて泣いていたかもしれない。 後ろ向きな私を、笑って受けとめて、大丈夫だって思わせてくれる人。
「いつかずっと一緒にいられる時が来るからね」って彼が言った。 「とおーいね!」と私は答えた。
私がここを巣立つまで少なくとも2年間。
その人が、奥さんと別れるのはいつになるのかな。
未来は誰にもわからないんだから、考えても答えが出ないことならば、考えないほうがましじゃない?
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