2006年09月11日(月) |
川上弘美『ニシノユキヒコの恋と冒険』 |
人を好きになることに理由なんてなくて、突然なものであるように、人を好きではなくなる瞬間もある日突然、理屈なしにやってくる。 そして、恋の終わりは、想像以上に確固とした瞬間にあり、後戻りすることは非常に困難だ。
だだをこねずに、恋の終わりを受け入れられるようになるのは大人だからなんだろうか。 いろんなことをあきらめられるようになるからだろうか。 恋の上手になりたいなあ、と思いながら読んでみたけれど、ニシノユキヒコも、モテはするがいずれも実らない。
「ユキヒコはあおざめていた。わたしのことを、甘くみていたのだ。いつもいつも。わたしはユキヒコを甘くみていなかったのに。でも、甘くみあわないで、どうやってひとは愛しあえるだろう。許しあって、油断しあって、ほんのすこしばかり見くだしあって、ひとは初めて愛しあえるんじゃないだろうか。わたしは、一度もユキヒコを甘くみることができなかった。ユキヒコのほうはわたしを甘くみていたというのに。 「マナミ」ユキヒコが、呼んだ。せつない声。 「どうして、そんなこというの、マナミ」 けれど、もうユキヒコは気づいてしまった。わたしがユキヒコのなめらかな無関心に気づいているということに。これで、もう戻れない。もう間に合わない。イチルノノゾミもない場所に、わたしが、自分から、ユキヒコをみちびいてしまった。」
「「もうちょっと、こうしていようか」 「ううん、もう宿に帰る」あたしはゆっくりと言う。まだ頭はからっぽのままだ。 「いいの」 「宿に帰って、おりこうに眠る」 幸彦が笑った。あたしの頭を撫でる。ユキヒコ、とあたしはつぶやいた。心の中で。
「もうちょっと、こうしていよう」幸彦は言った。そうね、とあたしは頷く。 「沖の灯がきれい」あたしは、からっぽみたいな声で、言う。 「きれいだね」幸彦も繰り返す。 「このまま夜の海がどこまでも満ちてくればいいのに」
夜の海が満ちて、あたしたちを沈めて、そうしたらあたしたちは小さな蟹になればいい。小さな蟹になって、お互いのことを知らず、潮が引けば穴から出て、潮が満ちれば穴に戻ればいい。 幸彦の鼓動が、あたしのからだじゅうに伝わってくる。 「ユキヒコ」あたしは言う。今自分の中にある優しさをすべて凝縮したつもりの声で。 「うん」 「ユキヒコ」もう一度、あたしは言う。今度はできるだけ静かに。何もその響きの中に込めずに。 「うん」 ユキヒコとあたしの気配が、しずかにしずかに、夜の海に向かって、満ち広がってゆく。
ユキヒコ。さらにもう一度、あたしは言う。声に出さずに。 ユキヒコ。戻れなくて、つまらないよ。ユキヒコ。時間が流れて、さみしいよ。ユキヒコ。あたしたちは、ばかだったね。 波がときおり大きな音をたてて、寄せてくる。海が大きく満ちてくる。夜の中であたしはいつまでも、ドキドキしている。」
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