今日の日記は、2004年3月21日に書いた『セレンディピティ』の感想の対を成すものです。
ananに載っていた角田光代さんのエッセイ。
「私は激しい運命論者だった。 恋愛も、友人も、あるいは出会うものごとすべて、運命という人知の及ばぬものが作用していると、ずっと信じていた。(中略) 交際をはじめた彼と喧嘩するたび、自分に言い聞かせていた。 私たちは運命的に出会ったのだから、うまくいかないはずはない。 私は多分、関係よりも運命を信じていたんだと思う関係がこじれても、運命が何とかしてくれると、漠然と思っていたんだろう。そのうち、合うことより合わないことが増えてきた。 それはもう、運命なんて言葉から見たら本当にちいさな、日常レベルの相性の問題だった。 けれどそういったすべてを、運命は解決してくれないのだった。 日常レベルの相性は食い違ったままどんどん大きくなって、私たちは別れた。(中略) 運命や縁という、人知を越えた何かは、きっとある。 どんなに小さなものでも意味のない出会いなんてなくて、すべてにきっと意味はあるんだと思う。 けれど、運命がしてくれるのは、そこまでなのだ。それからあとは、私たちがなんとかしなくちゃいけない。」
運命によって出会いは導かれても、そこから先はお互いがいい関係を築くために動かなければ何も始まらない。 一歩進んだ運命論ですね。数ある出会いの中で、ピンときた出会いは漫然と自然の成り行きに任せておくのではなく、自分の意思で掴み取っていかなければならない。
私は自分のやりたいことしかできないし、納得できなければ一歩も先に進めない頑固者だ。 だから、自分の運命と出会いに責任を持つこの前向きな考え方はいいなあ、と思いました。
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