慎二さん、と園子が声をかける。結局それ、何語だったの? 慎二は何をいわれているのかわからない。 いま、うたっていたでしょう、エントロピー、エントロピー、って。 ほんとうに?慎二は自覚がない。 園子のハミングに合わせ、唄っていたのだろうか? エントロピー、エントロピー。 熱力学上の量の定義。閉じられた系のなかで、エントロピーは常に増大し、 熱量は平衡へ、構造は無秩序へ、必然は偶然へと、ばらばらに解けていく。 エントロピー、エントロピー。慎二は口のなかでいってみる。 エン、で流れ、トロ、で少し跳ね、ピーの余韻に消えてしまう、 冷えていく金属のような音の響き。 慎二は歩きだしながら、もともとは、ギリシャ語だったようだよ、 と、黄色い光を受けている園子にいう。 その語の意味を、わかっている範囲で話そうとするが、うまくいかない。 じゃあ、と園子は光のなかでいう。 もっとギリシャ語っぽくいってみて。もともと、 それが話されていたときの人みたいな、そんな声に出していってみて。 慎二はうまくできる気がする。 立ち止まり、息を吸い込んで、ありったけの熱量を胸にはらませる。 そして川面に向かい、
イエーン、トーロップ、フィー
絶え間ない川音の隙間へ、その音は入りこみ、えんえんと伸びていく。 やがて遠のき、消えつつある音に耳をすませ、うなずいて振り向くと、 園子は光を浴びたまま立ちつくしている。 驚いたあ、と語尾にアクセントをつけた発音で園子はいう。 声と一緒に、もっていかれそうになっちゃった。 慎二はうなずき、そして川下へ、歩き出そうとする。 ねえ、慎二さん、と園子は光のなかからつぶやく。 いまの言葉を逆さにいうと、どういう音になるの? 逆さ?慎二は驚いた顔で振り向く。そんなの、できるもんか。 やってみて、と園子はいう。 エントロピーの逆を、私に聴かせて。 慎二ははっとする。園子に照りつけている黄色い光のなかに、 慎二はとりわけまばゆい、白く沸騰する一点を見たと思った。 園子のちょうど腹のあたりだった。 目の前にいるのは園子だったが、その白光は、園子だけではなかった。 その小さな一点に、自分や園子につながる、 ありとあらゆる人がいるような気がした。
★みずうみ/いしいしんじ★
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