正宗 軽井沢から五月に帰ったときに、ひとに本をことづかってきた。 僕の前には男が掛けて、週刊誌を読んでいる。 僕はなにも持っていない。 そこで、ことづかってきた本を、どんな本かと思ってあけたら、 日本訳と英訳と対比してある聖書の新しい翻訳なんだ。 これでも読もうと思って、ロマ書を読んだ。 あれが聖書の中心みたいなものだ。 少しでも読もうと思ったら、大宮まで来るまでに、 ついしまいまで読んじゃった。 非常に感動するような感じがあった。 前の人が、なんなら週刊誌をごらんなさいと言ってくれたが、 ちょうどそれもおもしろいんで読んだ。 僕は週刊誌も読むんだ。週刊誌をばかにしない。 週刊誌もおもしろいし、聖書もおもしろい。 しかし、聖書のおもしろさは、いまの文壇の人にはわからんな、 全然興味の素質がないんだな。 素質のない人には、話たってしょうがない。 だからキリストの話なんか、自分一人で考え、 自分一人で信仰するだけのこと、 それではキリスト教の教えに違っているわけだけれども、 違っていてもいい。 人間生きるかすかな光は、というと、やはりキリストということを考える。 間違っていても間違っていなくても、 キリスト教というものは、一方で非常に残酷な教えだから、 ひとに殉教を強いるんだからな。 殉教しなければならないけれども、一方ではやはりつっこんで考えると、 深い認識は得るところがある。 それは他の宗旨にもあったでしょうね。法然上人でもなんでも…。 しかし、聖書は、やはり内村鑑三が「ジイ・ブック」といっておった 本そのものなんだ。 僕にはやはり、いつまでもおもしろいな。 いまから見ればおとぎ話みたいなものだけどな。
★日本文学の流れの中で/正宗白鳥×江藤淳★
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