■2000年(34歳) 『グレートピープル。ストレンジ/日之出出版』『ぶらんこ乗り/理論社』
「(理論社の人に)どういう話ですかね」って聞かれて、 「たぶん動物と人間は絶対にわかり合えないっていう話になると思います。 動物と人間だけじゃなくて、男女とか老人と子どもだとか、 あらゆるものは結局わかり合えないっていう話になると思うんです」 って、すごく明るく言っておきながら、 その時はどういうことかよくわかっていなかった。 実際、「たいふう」と引っぱり出してきてそれを最初に据えたというのも、 別に目的があったわけではなくて、 何となくその一九九九年に帰省している時に 「幼稚園の時に書いたものがあるかな」とか言って見せてもらって、 「あ、こんなのやったのか」ってその時に初めて思って。 …そうか、それを見たから二〇〇〇年に気分が晴れたのかもしれませんね。 年末に天王寺でということが重要なのではなくて、 帰省したときに「たいふう」を見たというのが大きかったんでしょうね。 ★『文藝特集いしいしんじ』★
「(「ぶらんこ乗り」を書くまでは身体を投げ出すことで) 自分がわりとちゃんと外部に受け止められるというか、 つながることができると思いこんでいましたからね」 「でもそれは無理なんだ、それは全然意味がない ということがわかって、つまり外部でしかないっていうことが わかったので『ぶらんこ乗り』を書き始めたのだと思うんです」 ★『文藝特集いしいしんじ』★
『ぶらんこ乗り』を書き上げた頃、小三冶の落語を観に行き、 園子さんと知り合う。
■2001年(35歳) 『トリツカレ男/ビリケン出版』『人生を救え!/朝日新聞社』 「マオマオネット」で「虹色とんかつ」等、 ごはんで遊ぶような連載が始まり、その後今も続く『ごはん日記』に。 『ごはん日記』にはおいしそうに食事する描写がたくさんあり。
京浜急行で三崎港へ。 路地を散歩していると、海の男のためのバー、スナックがいっぱいみつかる。 「夜霧」「ばっかす」はわかるとして「蜂」ってのはいったいなんだ? 土蔵などがたくさん残るすばらしい港町です。 引っ越しを検討しながら帰宅。 ★ごはん日記★
この年に10年住んだ浅草を離れ、三崎へ引っ越す。
■2002年(36歳) 『麦ふみクーツェ/理論社』 包丁で親指をケガ。
三崎で嫁さんと料理をしていて左手を切ったんですよ。 ダーッと血が出てぶらぶらの状態で病院行って、六針ぐらい縫った。 僕はアトピー性皮膚炎がずっと右手に出ていたんです。 だから利き手でシャンプーや石けんが使えなかったんです。 なのに、それまで使っていた左手が切れてしまって、 「水仕事とか絶対だめですよ」って言われて、 「そうか。明日から右手を使わなあかんのか、 手袋をしてシャンプーとかするの気持ち悪いだろうな」 と思ってその晩は寝たわけ。 そしたら翌朝、右手のアトピー性皮膚炎がまったくなくなって、 ツルツルになっていたんです。 七年ぶりぐらいに右手で歯を磨いて顔を洗って洗いものをして、 「ああ、利き腕の方が楽だ」って思った(笑)。 それで10日ぐらいで抜歯できることになって、 「よかった、このまま出ないかもな」って思っていたら、 タクシーで病院から家に帰る途中、 ふと右手を見るとまた出ていたんだよ。 ★『文藝特集いしいしんじ』★
■2003年(37歳) 『プラネタリウムのふたご/講談社』『絵描きの植田さん/ポプラ社』
いしい「『プラネタリウムのふたご』を三崎の家の二階で書いてたんです。 ラストのあたりでクマが踊る場面を書いて、 『クマが踊るわ、どんな風に踊るんだろう』って思っていたら ふすまがガタガタ揺れるんですよ。 また近所の子どもが遊びに来たのかと思ったので『邪魔やねん』 って言っても反応がないし、でもまだ揺れているから 『何だろう、うっとうしいな』と思ってふすまを開けたらそこにクマがいたんですよ。 黒いクマで僕の胸ぐらいの高さで、しかも踊っているの」 川内「その踊っているっていうのがいいね」 いしい「踊っていたんですよ、本当に」 川内「その時はいきなり自分の頭の中の映像が目の前にビジュアルとして 現れたわけでしょ。おかしくなりそうにならなかった?」 いしい「『自分はこうはならないと思っていたのについになってしまった』 っていうふうにいろんな思いが錯綜しましたね(笑)。 ただ何も言えずに言葉を失って後ずさって、急に腰に力が入らなくなって ペタッて床に座り込んでしまった。 逃げようと思うんだけど身体も固まって動かない、 そこにクマが踊りながらやってきて……」 川内「怖いわ(笑)。しゃべれるんですか?」 いしい「しゃべれない。その時にもしかしたら僕は悲鳴を 上げたのかもしれないんだけど、それも覚えていないんです。 そしたら「どうしたの?」ってクマが言って着ぐるみの頭を取って(笑)。 嫁さんだったんですよ。 嫁さんはコマーシャル関係の会社に勤めていたんですけど、 たまたまその日に会社を辞めて、辞めるにあたって 「何でも好きなのを持っていっていいよ」って言われたので クマの着ぐるみをもらって三崎までドライブしてきたんですね。 それをそっと持って二階に上がって着替えてふすまをがりがりと こすった」 ★『文藝特集いしいしんじ』川内倫子さんとの対談★
■2004年(38歳) 7月、中島らもさん亡くなる。 8月、園子さんと結婚。
園子さんは中劇再生のための会合に出て留守。 ひとりで麻婆茄子をつくり、工房のトマトといっしょに食べ、夕方に買った本を読んでいる。 留守番電話に返答の電話をしたら、昨夜、中島らもさんが亡くなったと知らされた。
朝起きて新宿へのバスに乗り、らもさんのことをいろいろと思う。 幸い、隣の席には誰も座っていなかった。親しいひとの死はいつも突然やってくる。 遠くの森や夏雲や家並みをただじっと見ている。 毎年こういう景色を見るたび、らもさんのことを思い出すだろうと思う。 ★『ごはん日記』★
二階のちゃぶ台で書類を整え、判子を押す。 23年前に亡くなった父方の祖母は名前を「園子」といった。 ぼくは四人兄弟の二番目で、園子おばあちゃんにいろいろと面倒をかけることが多い、 いわゆるおばあちゃん子だった。 三年前、このごはん日記のなかに「園子さん」という名前を見いだした両親は、 「いったい誰や?」と電話をしてきた。 「まぼろしのおばあちゃん」とこたえると、両親とも大いに混乱した様子で、 あとから「あいつ、だいじょうぶか」(父) 「昔のしきたりとか詳しいみたいやから、ほんとうにおばあさんかもしれへんわ」(母) などと物陰でひそひそ会話を交わしあったらしい。 まじめな父母なのです。 戸籍上、園子さんは明日から「石井園子さん」になる。二代目襲名です。 初代園子さんは猫が好きでなかった。 犬を家にあげるのも「けじめ」といって許さず、土間でつないで飼いつづけた。 二代目石井園子さんは猫の化身であるいっぽう、 尾久の実家にいる「テツ」はやはり、庭につながれた生粋の番犬です。 初代は毛糸の編物が好き。二代目は松本で日々染織に取り組んでいる。 うちの母は電話で、 「わたし、イシイソノコさんに挟まれたサンドイッチの具」といっていた。 松本の家の園子さんのこたつには、園子おばあちゃんの編んだ、 色とりどりのこたつカバーがかかっている。 ★『ごはん日記』★
■2005年(39歳) 『ポーの話/新潮社」『白の鳥と黒の鳥』
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