■1966年 2月15日生まれ。大阪の帝塚山出身。 ■1970年(4歳) 幼稚園の宿題で「たいふう」書く。 その後「サイシリーズ」など続々書き上げる。 おばあちゃんのお茶器にオバQの絵を描いて、 「今度描いたら、お酢を飲ませて体をぐにゃんぐにゃんにして サーカスに叩き売るよ」と怒られたりも。
いしい「(自分の身体を)お供えというか貢ぎ物みたいに出して 喜ばせる、そういう外部と自分との距離のとり方だったと思います」 編集部「それはいつ頃から始まったことでしょうか」 いしい「『たいふう』を書いたあとからじゃないかな」 編集部「書いたことで変化が起きたんでしょうか」 いしい「ウケたからじゃないですかね」 ★『文藝特集いしいしんじ』★
■1972年(6歳) 小学校入学。旺文社文庫を愛読。
いしい「小学生のとき、歌を習ってました」 らも「へえ、どんなん歌ってたんや」 いしい「『ぼくらはみんなーいーきているー』とか、いわゆる唱歌を。 大阪のフェスティバルホールで、発表会をやったんですけどね」 らも「大物シンガーやな」 いしい「歌詞ど忘れして、やけくそになって、 全部、替え歌にしてしまったんですよ。 『クラゲだって、浮輪だって、ものごいだーって』なんて。 ものすごい受けましたけど、虚しかったな」 らも「親御さんは、客席で、つらかったやろな」 ★『その辺の問題』★
よく服を脱いで走り回ったりしていたが、担任の先生に 「いしいくんは本当に女の子がすきやねんな」と言われて 「すごい失敗した」と感じやめる。 その後、テストや提出物に自分の名前を書かず、 勝手に作った名前や空欄のまま提出するように。 空想の日記も書く。友達とは野球やがきデカやテレビの話など普通に話す。
小学校三年生の頃に書いた日記が出てきたんですけど、 もう嘘八百ばかりなんですよ。字も勝手にあみ出したりしていて。 その日記に先生がずっと判だけをついているんです。 途中で僕が日記のあとがきを書いていて、 「先生、判子ばっかりじゃおもしろくないから何を思ったか ちゃんと書いてください」って訴えていて。 ★『文藝特集いしいしんじ』★
■1977年(11歳) 心斎橋の手塚治虫講演会に参加。 整理券待ちの行列に並んで後方正面の席を手に入れる。
■1978年(12歳) この頃まで小児喘息の為、 毎週水曜日は学校を休んで注射を打ちに。
小学校高学年から中学校にかけては、小児喘息にかかっていたこともあって、 身体と精神、両方の病院に通い、学校も休みがちになりました。 そうすると、学校の一員とは思えなくなって、 傍観者の気分でみんなを見ていました。 ★マオマオネットインタビュー★
■1979年(13歳) 中学校入学。家にあったルソーの『告白』を読み、気に入る。
■1982年(16歳) 高校入学。シャガールの絵を見て画家になると思う。
「おれが子どもの頃から思い描いていたものが、 こういうふうに絵になっている。つまり、おれは絵描きになるんだ。 というよりも、頭の中にそういうものがあるんだから、もうほとんど絵描きだ。 あとは絵を描くだけだ」と思い込んだんですね。 ★『文藝特集いしいしんじ』★
■1983年(17歳) アメリカ(イリノイ、ワシントン、バージニア、サンフランシスコ)へ旅行。
高校2年生の時に初めてアメリカに短期留学で2ヶ月が最初です。 そこは、まだ日本人もきたことも無いようなくらい田舎で、 僕が行ったときに新聞ネタになったくらいでした。 そこではいろんな事を経験しました。いままで服用したこと無い変わった薬や… まあいろいろな体験をしました。でもそんなんは、やめといたほうがいいなあ。 はじめて道化師のかぶりものをしたのもこのときです。 それ以来様々な場面でかぶりものをするようになりました。 たとえばパーティなんかで全身着ぐるみでいるとみんなからは、 見えないわけで、小さい頃、学校を傍観者としてみていたような、 そんな感じです。まあただ最近はかぶりものにたよらなくてもよくなりました。 たぶん、気持ちのバランスがいいのですかねえ。 ★マオマオネットインタビュー★
■1884年(18歳) 芸大受験に失敗。デザイン事務所に就職。
デザイン事務所の社長にある日、「いしい君、きみはなぁ、 芸大とかに行ったらあかん」と言われたんですよ。 「おれは昔から、きみみたいな人間が芸大に行って どんどん頭がおかしくなっていくのを何人も見ている。 だから、よくない。ふつうの大学に行きなさい」と。 その人の言い方がものすごく真に迫っていたので、 勉強して大学に行ったんです。 ★『文藝特集いしいしんじ』★
■1985年(19歳) 京都大学仏文学科入学。フランス(パリ)へ旅行。
山田稔さん、宇佐美斉さん、吉田城さんなどが当時の仏文先生陣。 しかし興味があったのは生物学や博物学。 キュヴィエ、ラマルクなどを原語で読んでいた。 ジャコメッティと矢内原伊作さんの本も好き。 法律にも興味があり、裁判を傍聴しに行ったりも。
卒論は 「博物学で書いたんですよ。 それこそ、マンドラゴラとか民間伝承について」 ★『その辺の問題』★
大学2年で専攻を決めるわけなんやけど、 仏文はフランス語で書いていることだったら何を勉強してもよかった、 というのが一番の理由かなぁ。 文学でも、政治でも、経済でも、料理の事やら絵画の事やら、音楽の事やら、 何を読んでもええ。 もう一つの理由としては、大学2年のときヨーロッパに行って フランス人の女の子がいちばんかわいかったというのあるなぁ。 結局、僕が好きで読んでいたのが、フランスの生物学の話で、 いろいろな船長さんが他の大陸から戻ってきては、嘘の話ばかりしているような。 例えば、アフリカには羊のなる木があると言えば、 新聞にそのまま載ってしまい、今も記事とかスケッチが残っていて、 そういうものを読むのが、すごい楽しかったんです。 ★マオマオネットインタビュー★
おもしろい授業は、ときどきありましたね。森毅先生の数学とか。いきなり 「諸君、数学において、数とはいくつまで勘定できたら偉いか、答えよ」 って、指さして当てるんですよ。 「自分は、無料大数という位まで、知ってます」 「阿呆、死ぬまで勘定しとれっ」とか言って。 結局、森先生が言うんです。 「あのな、君らの言うとるのは、算数。数学における数とは、3つでええ。 0、1、ぎょうさん。この3つやっ」 今でも覚えてますね、「存在するんか、せえへんのか、 するんやったら単数か複数か。これを考えるのが数学ですっ」て。 格好よかった。 ★『その辺の問題』★
外国の美術館で、ジャコメッティの30センチほどの立像を見ていて、 「奇をてらってこんなカタチになったのではないそうだよ」 「ジャコメッティには実際、生きたヒトがこんなふうに見えていたらしい」 と学芸員のおじいさんに話しかけられる。
大学を卒業する直前、知人の紹介だ、ということで 「カネコ」という人物から吉本興業へスカウトされる。 一晩「ネタ」を見せ、ラーメンをごちそうになるが、 翌日以降連絡はなし。知人も「カネコ」など知らないと言う。
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