この四、五年というもの、追悼文ばかり書いているような気がします。 もちろん、他の類の文章も生業のために日々書き汚しているものの、 そのひとつひとつには曖昧な記憶しか残ってはいないのです。 ふざけて暮らしてきたはずでした。 たまに風の刺す日は、そんな自分を自己嫌悪に浸らせて センチに酔う時もありましたけれど、小ずるくそれをうやむやにする術も 身につけていましたから、なんとかふざけたまま、やり過ごしてこれました。 ところが、母が死んでから、母を弔うような文章を書き綴り、 その途中でナンシー関さんや石井輝男さんの死に立ち合い、 その度、追悼文を書いているうちに、自分の中の現実が逆転してしまっているのです。 気がつけば、真剣に対話しているのは亡くなった人たちに対してだけで、 この世に対する原稿や人々に、現実味を失っていました。 「コンニチハ」よりも「サヨウナラ」が日常の挨拶で、 希望よりも後悔のほうがはるかに大きな意味になり、もはや、 ふざけることも死者に対しての方がリアルな行為になっています。 いつもどこかで、感じています。 その人たちを見送りながら、僕は間に合ったのだろうかと。 ベースの角に滑り込みながら触れたような気がしたけれど、 その時はすでに審判の親指は天に向かって上げられていたような気がする。 アウトなのか、セーフなのか、砂にまみれて見上げるけれど、 審判の表情は眩しくて照り返されて、その判断がわからない。
★サヨウナラのタバコ/リリー・フランキー★
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