それは、たったいま話したことがたわごとだからです。 でも、有益な、心の慰めになるたわごとでしょ。 そこなんです。わたしが宣教師どもに反発するのは。 彼らはだれかを少しでも楽しくさせるようなことを、なにひとつ言わない。 話そうと思ったらこういう気分のいいうそがたっぶりあるというのに。 しかも、うそといえば、あらゆることがうそなのです。 なにしろ、われわれの頭脳は情報単位が2ビットしかないコンピュータだから、 そこからはあまり高度の真実は得られません。 しかし、人間の条件を改善することだけ考えるなら、 われわれの知能はもちろんその能力を持っています。知能はそのためにつくられた。 そしてわれわれは慰めになるうそを作り出す自由を持っている。 ところが、われわれはその自由を十分に生かしていないのです。
わたしの好きな牧師さんで、ボブ・ニコルソンという人がいました。 ジョーゼフ・コットンに似た独身男でね、 ケープコッドの監督派協会の牧師でした。 この人は教区民のだれかが死ぬたびにへなへなになってしまう。 死の衝撃に耐えられないのです。 しかたがないので、教会員と遺族が懸命にこの牧師を慰め励まし、 キリスト教の土台に押し上げて、ようやく葬儀を執行させるありさまでした。 そこが非常にいいと思いましたね。 監督派のきまりきった葬儀で述べる式辞なんぞに彼は満足できなかった。 かれにはもっとましなうそが必要だったのです。
★ヴォネガット、大いに語る/カート・ヴォネガット★
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