(山荘のストーブの上に置いてあったはずのコードレスフォンが行方不明に。 家中を探しても見つからず、ついにソファのクッションまではがしてみると、 その肘掛の付け根から電話発見。 呆然とするも、一日中電話を探していてお腹が空いていたので とりあえず車で町まで出て何かを食べることに。 すると車のカギも紛失していることに気がつき愕然。 仕方なく手提げに入れてあったはずのスペアキーを取りに行くと、それもない)
この集落には「何かあったらいつでも走ってくるから遠慮しねえで電話しろ」 といってくれている人が何人かいる。 だがその人たちにいったい、何といってこの状況を呑み込ませればいいのか。 私にとっては異常だが、他人にとってはたかが車のキイが二つ、 なくなっただけのことだ。騒ぐほどのことじゃない。 電話が長椅子の中にあったなんて、どういえば信じてくれるだろう? 「とうとうおかしくなったんでないかい?いつも変ったこといってたもんな」 といわれるのがおちだ。 その時、「もしや?」という思いがきた。 立ち上がって、さっき電話が出てきた長椅子のクッションを剥がし、 肘かけのつけ根に手を突っ込んだ。 中は袋のようになっている。底をまさぐるとすぐ指先に触れるものがあった。 金属の感触。キイだ。 取り出して見定め、もう一つを探る。それもすぐ指先に触った。 二つのキイを手のひらに載せて、私は娘に向って、 「ほら!」とさし出した。「あったの!」 「あった…」 その時のわたしの顔は、まるでストレートパンチが決まった素人ボクサーのようだったと、 後で娘はいった。 私と娘は車に乗り込んだ。 私は「不動明王」のお札をスカートのウエストに挟み込んで、 「南無大日大聖不動明王!」 力を籠めて唱えつつ、車は山を降りて町へと向ったのであった。 もう南無妙法蓮華経では心もとない。 不動明王の憤怒の相、右手に降魔の剣、 左手に縛の策を握って悪魔を降伏せしめんとするとの力を恃むしかないという心境だった。 そうして私たちは町へ行き、宝龍ラーメン店で味噌バターラーメン(娘は大盛) を食べて帰って来たのであった。 後にこの話を遠藤周作さんにしたら (そもそもあんなボロソファをくれるからこんなことをされたのだ、といいたかった)、 遠藤さんは、 「そんな思いまでして飯食いに出たんなら、もうちィとマシなもん食えや」 といった。 遠藤さんはその時、私の話を信じたかどうか、私にはわからない。
★私の遺言/佐藤愛子★
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