(高3の夏休みにオーディションに合格、渋谷公会堂のコンサートに出演。冬休みにはデビュー・シングルのレコーディング、そしてデビューという流れについて) デビュー・シングルが3月の5日に出たわけです。それでまあ、デビューということになったんですけど、なんにもないわけ(笑)。プロダクションもないし、アマチュアがレコードを出したみたいな話ですよね。デビューだからどう、って言う話はなくて。それから1年くらいしたらホリプロに入ったんですけど、給料が3万円で親にもバカにされて(笑)。”こりゃあ、ヒドいなあ”って。だからプロになった自覚っていうのは全然なかったですねえ。
というか、春休みですよね。永遠に続く。高3の春休みは長いゾっていう感じですよ(笑)。でも、78年くらいから、3人ではやってられなくなって、CHABOとか新井田耕造とかが入って5人になったじゃないですか。僕はギター弾かなくなって、ハンドマイク持ってっていう。そのきっかけというのは、やっぱり真面目にプロとしてちゃんと金を稼げるバンドにならないとマズいと思ったわけ。それで、ああいうステージングになって、メイクとかもしたんですけどね。
なんでそんなに長く春休みでいられたかっていうと、陽水と曲を作ったっていうのがあって。仕事をしなくても印税でけっこう何年も食ってられたんですよ。楽器買ったりして、音楽の勉強をしてたような感じですよね。本、読んだりとか。じつに世捨て人状態なんですけど、自分としては全然芸術家な感じなわけ。で、お金に不自由しないってわけでもないんだけど、でも暮らしていけないっていうほどでもないっていう。そうこうしてたら、結婚したい彼女ができまして、付き合ってたんですけど、ある日その親父が怒鳴り込んで来たんですよ。それで、収入とかいろいろ聞かれて。その時は確か月給が9万円だったんですけど、一応”18万です”って倍にして言ったんです(笑)。でも、そんな安月給のヤツにウチの娘をやれないと言われて、それで考えたんですよねえ。これはやっぱり、なんとかしないといかん、と。もっとわかりやすい曲をたくさん作って、ヒットでも出して、ちゃんとしたプロにならないといけないって思ったんです。
(武道館ライブを終えて) でも、それで満足っていう感じじゃなかったのはおぼえてますけどねえ。まだまだっていうか、これくらいの騒ぎじゃ駄目だろうっていう気はしてましたけど。初武道館の時もねえ……。なんかずっと思ってますねえ。まだこんなもんじゃ駄目だっていうのは。
若い頃は一生懸命作り過ぎてるんですよ。それが、だんだん力が抜けてきてる。で、力が抜けた分だけ余裕があるっていうかね。そういうふうになってきたんじゃないかな、と思うんですけどね。
最初に僕と三宅でリズムを録っちゃって、それからなんか考えてるような感じなんですよ。趣味の延長と言いますか、楽しいからやってるっていうのがけっこう大きいんですよね。自分で録音もできることがわかって、その喜びも大きくて、それが楽しくて始まったレコーディングなんですよ。自分で録音ボタンを押して、それからドラムのところまで歩いていって、それで叩いたりしてるんですけど(笑)。で、これは実は、去年の11月に出すと冬のツアーになっちゃうじゃないですか。寒いからいやだなと思ってたんですよ(笑)。寒いと自転車もあんまり楽しくないじゃないですか。やっぱり春のツアーがいいんじゃないっていう話になって。そんなことを言ってたら、”そうだ!来年は35周年ですよ”ってことに誰かが気がついて、そりゃあいいってことで今年出ることになったんです。だから、35周年ってことはレコーディング中は全然意識してないんですよ。だって、ほとんどできあがるまで誰も気づいてなかったんだもん。
35周年にふさわしいと思いますよ。集大成的な感じかなあって。
40周年は真面目にやろうかなと思ってます(笑)。飽きる心配は今のところしてないですけど、やっぱり飽きたらもうできないでしょうねえ。でも、飽きないっていうか、満足してないから。満足しちゃったら飽きるかもしれないですね。
出すレコード、全部100万枚とかさ。そういうことですよ。やっぱり数字でしょ(笑)。
★ぴあ no.1093/忌野清志郎★
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