「小説を壊そうと思い始めてね」
──今回、鼎談をお願いした御三人にはいくつかの共通点があるように思います。第一に、音楽との深いかかわり。第二に、アンチモラルな作品世界。第三に、現代的ヒューモアの最前線をなす言語感覚。さらに、町田さん、中原さんは幼少の頃より筒井さんの愛読者であり、筒井さんは御二人の才能を最初期に評価されました。まずは、話のとっかかりとして、筒井さんに、町田さんと中原さんの音楽を聴いていただきます。
(町田氏のCD-RをPLAY) 町田 これは売り物じゃなくて、音楽じゃなくて詩の朗読なんですけど。
中原 おお〜!朗読っていっても音響の処理とか、すごい凝ってますね。
筒井 いいね。面白いじゃないの。
町田 冗談でやってみただけでして。パソコンに最初から入っている音楽ソフトで作ったんですけど。
筒井 そうか。パソコン一台でこんなのが作れるんだ。
(中原氏のヘア・スタイリスティックス名義のCD『Custom Cook Comfused Death』をPLAY) 中原 いやあ、恥ずかしい。
筒井 思ったより、きちっとしてるじゃない。小説よりよほどいいよ(笑)。
中原 なははは。
町田 かっこいいじゃないですか。
中原 これ打ち込みでやってて、生演奏じゃないんです。ああ、ひどっ、ひどいな!いや、もう恥ずかしい。
筒井 きちんとしてるっていうか、汚くないんだよね。思っていたよりはね(笑)。
中原 町田さんのバンドの曲も聴きましょうよ。「朝日がポン」がいいって友達が言ってたんですけど。
(町田氏のバンド、ミラクルヤングのCD『ミラクルヤング』をPLAY。♪朝日がポン、のぼってポン 君は不細工だ……) 中原 すごい。なはははは。筒井さんがクラリネットを吹かれているLP盤(『THE INNER SPACE OF YASUTAKA TSUTSUI』)がここにありますけど、これも聴きたいなあ。
筒井 僕のはいいよ。いい。これはつまらん。やめて、もう、恥ずかしいから、本当に(笑)。 やっぱり最初は、三人に共通する音楽の話から始めましょうか。僕がジャズで、町田君がパンクで、中原君が……いつも中原中也って言っちゃうそうになるんだよね。チューヤじゃなくってナカヤ。だってこっちが町田町蔵だから、こっちは中原中也(笑)。で、中原君はノイズ。「新潮」は文芸誌だから、それぞれの音楽がそれそれの文学とどう結びついているかというところで話を進めていくしかないと思うんですがね。だけど、ジャズとパンクはえらい違いだし、パンクとノイズも違う。だから、どこで結びつけるかというと、僕が考えたのが「破壊」ということなんです。それがこの三人の、しかも音楽と文学とに共通するものではないかと思うんです。 僕のことからいいますと、ジャズに入れあげたのが中学時代です。特に僕が好きだったのはスウィングジャズなんだけど、第二次世界大戦の前だったか大戦中だったか、スウィングジャズ全盛期のアメリカに著作権管理組織ができたわけですよ。今の日本で言うとJASRACみたいな。それで著作権料の問題が非常にうるさくなって、ほかの作家のものを演奏すると金がかかるようになった。で、ジャズマンはみな貧乏だから仕方なく、クラシックをジャズに編曲──われわれは「ジャズる」といってるんだけど──したんです。以前から、たとえばリムスキー=コルサコフの「熊ん蜂の飛行」をピアノでブギにした「バンブル・ブギ」とかもあったんだけれども、たとえばベニー・グッドマンだったっけ、ウェーバーの曲を「レッツ・ダンス」なんて曲にしたり、トミー・ドーシーがいちばん多いんだけど、メンデルスゾーンの「春の歌」をやったり、歌劇「サドコ」の「印度の歌」だとか、クラシックを軒並みジャズにすることでクラシックという権威を何かバカにして、笑い物にしているという感じがして、僕にとっては非常に刺激的だったんです。今にして思うことだけど、どうも僕のパロディの原点はその辺にあるんじゃないかという気がするわけですよ。もちろん、オリジナルのスタンダードナンバーもたくさん聴いてましたし、それはそれでよかったんだけど、クラシックをジャズったものが特に好きだった。ポピュラーでもカテリーナ・ヴァレンテが「エリーゼのために」をルンバで歌ったりもしているけど、やはりジャズの方が、クラシックを批判している感じがして、ずっとよかった。 そういえば、「君が代」を卒業式で歌う歌わないという問題が以前からあるけど、音楽の先生が「君が代」をジャズで伴奏したって話があるんです。伴奏がジャズでもちゃんと歌えるんだよね。もちろん、その先生は後で罰は受けただろうけれども、生徒の中で泣きだした子がいたっていうの。ただ歌わないというのならいいが、ジャズにされるのは耐えられないっていう素朴な愛国心のような気持ちが奥底にあったんじゃないかな。とすると、この「ジャズる」というのは大変な破壊力なんじゃないか。クラシックをジャズるにしても、やっぱり古典的な権威をバカにしてて面白いから、聴いてる方は笑いますよ。 で、僕の場合はずっとパロディをやってきたわけですが、最近御二人に多少は影響されているのかもしてないけれども、小説を壊そうと思い始めてね。ただ、今から考えてみたら、昔からそれとなしにやっているんですよ。僕が『筒井順慶』書いたとき、武蔵野次郎さんという批評家が「楚々とした美人がちょっと着崩しているのは非常になまめかしいけれども、この小説は初めから崩れている」っていうようなことを書いたんです。これは批判なんだけど、僕はうれしかったんだよ。それから二十年ほど経って『筒井順慶』が文庫で再版されたときに、解説をお願いしたくて、編集部が連絡したら、武蔵野さんはあの作品を貶したつもりだったから「エ!」って絶句しちゃったんだって。で、今になって、今度は意識的に小説を破壊しようと思い始めた時、御二人の小説には感心するんだけれども、小説を壊すというのは大変なことなんで、僕は短編でしかまともには壊せてません。今度『壊れかた指南』というタイトルで短編集を出そうと思ってるんだけど(笑)、その中の半分くらいしか成功していない。でも、町田さんの『パンク侍、斬られて候』や中原さんの『あらゆる場所に花束が…』は長編で小説を壊した。これは大変な力量なんですね。 僕は、小説のアイデアそのものは無意識から来ると思う。だけど、壊しかたにもアイデアやエネルギーがいるわけで、ではそれはどこから来るかというと、どうも天の一角みたいなところからのような気もする。つまり小説自体を壊すということは、相当たくさんの小説を、しかも深く読み込んでいないとできない知的、意識的な作業なんですね。最近僕が書いた壊れた話しでいうと、「稲荷の紋三郎」という短編があって、本当なら四十枚くらいの話なのが、二十五枚か三十枚くらいのところまでは普通の時代小説で、いよいよこれからクライマックスという時に、やめちゃった(笑)。先を書いても予定調和になるだけだとわかっているし、自分の書きたいところまで書いたらそこでやめるほうがいいんじゃないかということを、この間京極夏彦と話をして、そういう結論が出たのでここでやめる、といってやめちゃったの。案の定、読者のおっさんから編集部に電話かかってきて、ネチネチ文句言われたらしいんだ(笑)。それが僕はもう非常にうれしかったね。やっぱり文句を言われなきゃ壊したことにならない。素人が小説を壊そうとしたって、ただのめちゃくちゃにしかならんわけでしょう。やっぱりいっぱい読んでいるから壊すアイデアも出てくるのでね。……ああしんど。喋りすぎました。あとは御二人に任せるんで、よろしく(笑)。
★破壊と創造のサンバ◇新潮10月号/筒井康隆×町田康×中原昌也★
|