突如「嫌い」が私の人生最大のテーマとなったのは、
私がそれまでもなんとなく嫌われていた妻や息子から、
ウィーンでのある日を境に激しく嫌われるハメに陥ったからです。
その理由は大層こみいっており、ふたりの人権を守るためにここではぼんやりとしか書けませんが、
妻は昨年春にウィーンで大事故を起こしたのですが、
そのときの私の態度が「優しくない」と彼女は私を責めたて、
それを観察していた一四歳の息子がついに徹底的に父親を拒否した、まあこんなところです。
私は家から追い出され、昨年暮れわが家の近くのホテルに移り、
三ヶ月そこに滞在し、今年三月在外研究の期間が切れてひとりで帰国しました。
その後ふたりはウィーンに留まり、時々私がウィーンを訪問したり
ふたりが帰国したりしますが、妻はカトリック洗礼志願者として毎日聖書と祈りの生活、
そして息子は私を完全に拒否したまま顔を直視しない関係、何も言葉をかわさない関係、
お互いに相手が存在しないかのように振舞う関係が続いております。
思えば、母は父を嫌って死の直前まで四〇年間彼に罵倒に近い言葉を浴びせ続けていた。
その言葉とほとんど同じ言葉が、今や妻の口から出てくる。
そして、私も父を死ぬまで嫌っていた。いや、死んでからもなお嫌っている。
息子が、また私をはっきり嫌っている。
これは一体何なのだ!
私はみずから生きてゆくために「嫌い」を研究するほかはないと思った。
つまり、私は自分を納得させるために本書を書いたというわけです。
★ひとを<嫌う>ということ/中島義道★
|