そっと近づいていくと、みうらさんはささやくように、
「ここから見ると最高だよ」 と言って席を譲ってくれた。座ってみるとなるほど左に頭を振った獅子と目が合う。
そのまま視線を上げていけば、文殊のまとった衣の左ひざあたりに
豊かなドレープがあるのに注目せざるを得ない。柔らかく仕立てのいい生地。
高貴な位がビジュアル化されている。見ほれていると、みうらさんが言った。
「シーンとしてるのが不思議なんだよ。すっごく躍動感あるじゃん、この像全体に。
だからほんとは木魚とか鳴ってるときにこそ見るんだなってわかるんだよね。今はオフだよ」
「ああ、そうか。そうだよね。お経の中でこそ生きるのかもね」 もし我々が美術的な視点でだけ仏像を見ているならば、
木魚の中で復活する生命を想像することはない。
また、逆に宗教的な視点だけで見るならばどんなときでも文殊は生きている。
ならば”木魚の音の中でこそ生きる”と感じる我々はどの視点から仏像を見ているのだろう。 おそらく我々は美術と宗教のどちらにも身を置かず、ただ双方を限りなく尊敬し、
称えているのだろう。ふたつが接点を持ち得る地点を一瞬ごとにサーチしながら仏像を見、
その生命の奇跡的なよみがえりに感動する。
「獅子、もうすぐ飛び出るね。柵を越えるよ」 みうらさんは想像の中で危ないものをよみがえらせようとしていた。
だが、私もその想像世界にどっぷりつかりたくなって答えた。
「そのとき文殊は蓮の上に浮いて待つね」
「マトリックスでしょう」
みうらさんは満足げにそう言って微笑んだ。獅子が動きを予感させるからこそ、
文殊の静けさが強調される。
そしてその分、文殊の脳の内部で高速かつ微細に動き続ける思考回路のはたらきが迫ってくる。
★見仏記 ゴールデンガイド 第1回/いとうせいこう★
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