「この犬はぼくが高校のときから飼っててね、今、十七歳なんです。すごいでしょ。
ぼくは大学のあいだ鎌倉から通っていたんだけれど。どうせあんまり行かなかったから。
で、学校出てから東京に住むようになって。
そのあいだ、別に近いんだけどあんまり家に帰らなくてね。
去年くらいから急にこの犬、耳が遠くなって、目もよく見えなくなってきちゃったんです」
と話し出して、そこで一回話を切って、ぼくたちの顔を確かめてから、
「で、この犬、ぼくのことを絶対に好きだから。
こっから先が、うまくわかってもらえるっていうか、信じてもらえるかわからないんだけど。
ぼくは、ぼくがいなくなちゃったから、この犬ジョンていうんだけど、
ジョンが自分で何か聞いたり、見たりする必要がなくなった、っていうか、
そういう意思を持たなくなってきちゃったと思ったんです」と、ここでまた一回休んで、
こういう誰もが納得するとは限らない話をするときによくする笑いをつくって、
「ぼくはそういう風に考えているから」
と言って、まだつづきを話しても大丈夫か確かめるように見てから、話をつづけた。
「人は見る必要があるから見て、聞く必要があるから聞くって。
たとえばぼくが家にいると、犬はいつもぼくがいつも自分の方に来るかって、
足音を聞こうとしてるでしょ、いつも。
逆にそういう注意がなくなってくると、いつも働かせてる耳も使わなくなってくるじゃない。
で、春ぐらいからほとんど聞こえなくなっちゃって、目も同じ頃から見えなくなってきちゃって。
だから、家に帰って、毎日一緒にいることにしたの。そしたらね」
と言って、それまでのどちらかというと無表情な顔つきから一転して、
「ホントに、耳も目もよくなってきたんですよ」
とにっこり笑ってみせた。
★プレーンソング/保坂和志★
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