ほとんどの先進国が神経症化してしまった今、その意味でも国家間の戦争はありにくい。
神経症的な国家においては、国家のあり方そのものに関する内省が国家的な自意識をもたらすことで、
過剰な行動に抑止がかかる。
さまざまな意味で神経症足りえない国――それはしばしば、経済的に貧しい国だ――
あるいは、カルト的な集団だけが、テロと戦争の主体として振る舞うことができる。
いっぽうアメリカは、もちろん神経症的な葛藤を抱えつつも、それを多重人格的に処理することで
――つまり「なかったこと」にするという忘却の技術によって――今日の覇権を勝ち得てきた国家だ。
それゆえ今回の「戦争を」精神医学的に理解するなら、人格障害者と多重人格者の戦争ということになる。
繰り返し断っておくが、ここはいかなる価値判断も含まれていない。
長く苦しい戦いになることが予測される。
それでは、現時点で私たちに可能な身振りとはなにか。
他国の視線を気にするとういう点において、世界の冠たる対人恐怖症国家であるわが国が、
あくまでもその神経症的な内省の構造を維持し続けること。
自意識過剰な戸惑いの中で、それとも正義と倫理とをあえて口にし続けること。
そうした身振りに固執することで、「正しい物語」ならぬ「凡庸なアンチクライマックス」
の到来に寄与しうるなら、私たちはそのときあらためて「神経症的な倫理性」を
確認することになるだろう。
★テロ以降を生きるための私たちのニューテキスト/斎藤環★
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