「誰がそんなこと言ったの?あたしが提督じゃないなんて、誰があんたに言ったの?」
ライオネルは答えたが、よく聞えない。
「誰ですって?」とブーブーは言った。
「パパだよ」
ブーブーはしゃがみ込んだまま、折り曲げた膝の下から左手をのばして桟橋の板につかまり、
ぐらついた身体を危うく支えた。「きみのパパはなかなかいい奴だ」と彼女は言った。
「しかし、あんなに海の生活を知らぬ男も珍しいぞ。港に入ればたしかにわしは奥さんだ――
それは本当だよ。だが、わしの本当の仕事はだな、何よりもまず、波踊る――」
「ママは提督じゃない」とライオネル。
「今何と言った?」
「ママは提督じゃない。ママはいつだってただの奥さんじゃないか」
ちょっと沈黙が落ちた。
彼女は、煙草に火をつけぬまま、不意に立ち上がると、
不自然なほど背筋をまっすぐにのばし、右手の親指と人さし指とで輪を作って口に当て、
それからカズー笛のように音を震わせながら何やら集合ラッパめいた音を出した。
とたんにライオネルは顔を上げた。おそらくインチキラッパと承知の上に違いないが、
それでもひどく感心したと見えて、ぽかんと口を開けている。
ブーブーは、消灯ラッパと起床ラッパが混じり合ったみたいな一種独特のその奇妙な合図を、
三度続けざまに鳴らした。
それから対岸に向かっていとも厳粛に挙手の礼をおこなった。
最後にまた彼女は桟橋の端にしゃがみこんでもとに戻った格好になったけれど、
そこへ戻る動作には、それまでの、何か世間一般の人や小さな男の子なんぞには
知るべくもない伝統的な海軍魂に衝き動かされてでもいるかのような
熱のこもった態度とは打って変わって、いかにも気乗りがしないといいたげな、
しぶしぶそうするといった感じが精いっぱいに滲んでいた。
しばらく彼女は、海と違って広くもない湖の水平線をじっと見やっていたが、
それからふと自分が一人でないことを思い出したような気配を見せ、
ちらとライオネルを(謹厳な面持で)見下ろした。
ライオネルはまだ口を開けたままである。
「あれ、もう一遍やって」
「とんでもない」
「どうして?」
ブーブーは肩をすくめた。
「一つには、下級将校がその辺にうようよしとるからな」
そう言いながら彼女は姿勢を変えると、インディアンのように胡座をかいた。
そしてソックスを引っ張り上げた。「でも、こういうことにしよう」
彼女は事務の打ち合わせでもするみたいなさりげない口調で言った。
「きみがなぜ家出するのか、そのわけを聞かしてくれたら、
あたしは知ってるだけの秘密のラッパをみんな吹いてあげる。いい?」
★小舟のほとりで/J.Dサリンジャー★
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