こんなに広々としていて、しかも人も車も全く通ってないのに、
どうしてこんなドッカーンなどと、バカバカしい大きな音をたてて衝突出来るのかしら。
人がいないのだから野次馬もない。
つっ立っている唯一の目撃者である私に、婦人は興奮した涙声で何か訴えはじめる。
事故の状態を証言してくれといっているのだろうか。
(ロシア語が話せない人間である)ということと、(私の背後で事故が起った。
ドッカーンと音がしたので振り返ったのであるから、事故の起きる直前の車の状態は見ていない。
だから証言は無理である。何しろ、ドッカーンと音かしたので振り返ったのであるから)
ということを、私は婦人にわかってもらいたい。
うしろ向きになって歩いたり、「ドッカーン」と発声して、はっと驚く仕草をしたり、
心をつくし手をつくして、私が証人になれないことを証明する。
結局、私は「ドッカーン」「ドッカーン」だけくり返して言っているばかりだ。
「御機嫌いかがかね」竹内さんが訪ねてきた。
「あたしの御機嫌はこの通り。でも武田は御機嫌よろしくない。
『アルマ・アタにどうして行けないのかなあ』ばっかり、そればっかり言いながら、もうねました。
旅行に出る前『古代保存官』ていう本、読み返したりしてたの。
よっぽどアルマ・アタに行くのが楽しみだったらしい。
見てやって下さい。このしょんぼりとねてる格好。カマトトにもみえるけど――
何だかカワイソウだ」
私はおかしがって話していたのに、カワイソウと発音したら、どうしたんだろう、
急に涙が浮かんでこぼれた。
★犬が星見た ロシア旅行/武田百合子★
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