「ただ弱かった、ってだけのことだよ」 とおじさんは笑う。
「世界ランクにはいるような選手だと、試合の結果が、偶然に左右されるなんてことはありえない。
パンチの、ステップのひとつずつがすべて計算ずくで動いていくから、勝敗にはちゃあんと理屈がある。
ぼくの視神経がちょんぎれたのがサミングのせいだか、相手のパンチのせいだか、ダウンした衝撃のせいなのか、
あのとき自分でもわからなかったし、いまだってわからない。そういうのって要するに、一流じゃないってことなのさ」
◇
「ただね、音楽家ってたいへんと思うよ」 ぼくの肩にてのひらを置き、おじさんはいった。
「だってこの世にはあらかじめ、ひどい音があふれちゃっているから。
ものすごい雑踏のなかで、シャドウボクシングをつづけるようなもんだろう。
だけど、いいか、きみはちゃんとその世のなかをみつめなきゃならない。
この世が実際どんなひどい音をたてているのか、耳をそらさずききとらなきゃならないんだ。
ぼくがおもうに、一流の音楽家っていうのは、音の先にひろがるひどい風景ののなかから、たったひとつでもいい、
かすかに鳴ってるきれいな音をひろいあげ、ぼくたちの耳におおきく、とてつもなくおおきくひびかせてくれる、
そういう技術をもったひとのことだよ」
★麦ふみクーツェ(第二章)/いしいしんじ★
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