2009年02月16日(月) |
バレンタイン に 「 寄付しました 」 と語る “ 下品 ” さ |
「 もし100人を養えないのであれば、ただ1人を養いなさい 」
マザー・テレサ ( ローマ・カトリックの尼僧 )
If you can't feed a hundred people, then feed just one.
Mother Teresa
今日は、オフィスに女性の来訪者が多かった。
14日が土曜日だったので、「 義理 」 を果たしにやってきたらしい。
渡す側も、受け取る側も、それが 「 義理チョコ 」 だとわかっているけれど、ちょっと照れ臭く、嬉し恥ずかしい空気が漂う。
若い頃は、ホワイトデーに “ お返し ” をするのが面倒で、義理チョコという習慣に否定的だったが、最近は、それを楽しむ余裕ができたようだ。
バレンタインに義理チョコをくれた人も、くれなかった人へも、3月14日には軽めのプレゼントを用意して、あちこちで配りまくっている。
その際、斜め後方から静かに忍び寄って、「 本気です 」 と呟きながら渡し、一瞬、相手がたじろいだ隙に、さっと走り去ると面白い。
ビル掃除のオバサンや、10代のバイト女史など、相手かまわずやるので、あるいは “ 変態 ” 扱いされているかもしれないが、なかなか快感である。
別に、「 くれないから腹が立った 」 なんて経験はなく、どんなに陳腐な品物でも、いただける物は有り難く頂戴するようにしている。
ただ、今日の来訪者で、「 バレンタインにチョコを渡す代わりに、寄付をしましたので、チョコは無しです 」 と、わざわざ伝えに来た人がいた。
しかも、そう言った上で、「 これは義理チョコじゃなく、寄付をした領収証の代わりなんです 」 と告げて、小さな包みを渡そうとする。
開けてみると、小さなチョコレートが数粒ほど入っていて、これはどう見ても 「 義理チョコ 」 以外の何物でもない。
その点を指摘すると、「 義理チョコに見えるけど、違うんですよ 」 と反論し、この寄付が、世界の困っている人々を救うのだと力説して帰った。
たぶん、この女性は 「 義理チョコなんてクダラナイ習慣に参加するよりも、自分は、もっと意義のあることに投資している 」 と主張したいのだろう。
なるほど、たしかにそうかもしれないが、だったら 「 普通に寄付する 」 だけで、わざわざ “ 領収書チョコ ” を渡しに来なくてもよいのではないか。
この女性にかぎらず、最近、これ見よがしに、「 私は寄付をしています 」 と宣言する人が、少しづつ増えているような気がする。
もちろん、寄付をする行為が悪いとは思わないし、困っている人に手を差し伸べたり、慈愛をもって救済する志は、尊敬に値する。
だが、それを 「 他人にアピールする 」 ことについて、あまり良い気がしないし、どちらかというと 「 不快 」 に感じるのは、私だけだろうか。
日テレの 『 24時間テレビ 』 では、小さい子供が貯金箱を抱えて募金の列に並ぶ姿を、MCが感動的に伝える光景が映し出される。
せちがらい世の中で、善行を眺める機会は少ないから、この番組を楽しみにしている人は多く、毎回、高視聴率を稼いでいるのも頷ける話だろう。
しかし、善行というものは、人の目が届かないところで、ひそかに行うのが美徳であり、あからさまに他人へ晒す類のものではないはずだ。
誰かが音頭を取らないと、なかなか寄付が集まり難いのも事実であるから、寄付をしましょうと訴えかけるのは、良い試みだと思う。
しかし、それで 「 私は寄付しました 」 と公言し、自慢げに発表する風潮を煽るのは、どうも “ 下品 ” に感じてしまうのである。
仮に、年収300万円ぐらいの人がいたとして、1日に100円づつを貯金し、年に一度、3万6500円を寄付すると、なんだか 「 いい人 」 にみえる。
かたや、年収3000万円の人がいて、まったく寄付をしなかった場合には、あまり 「 いい人 」 だと思ってもらえない。
実際には、年収3000万円の人物のほうが、はるかに納税額も多いので、社会福祉にも貢献しているが、世間には 「 金持ち=悪 」 の印象が強い。
冒頭の マザー・テレサ の名言は、「 世界を救おう 」 なんて大それたことを考えるより、先に、「 自分のすべきことをしろ 」 という教訓を含んでいる。
小さな善意も無駄ではないが、「 寄付しました 」 なんて自慢をしている暇があったら、自分の仕事に集中し、誠実に働くほうが、社会のためになる。
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