| 2007年09月03日(月) |
山口県光市 母子殺害事件弁護団の品格 |
「 悪人を容赦する者は、善人を害する者だ 」
ルキウス・アンナエウス・セネカ ( 古代ローマの政治家、詩人 )
He who forbears to the bad, harms the good.
Lucius Annaeus Seneca
なぜ、「 悪いことをすれば、罰が与えられる 」 という仕組みがあるのか。
なぜ、「 悪いことをした人間にも、弁護人がつく 」 制度があるのか。
右か、左か、判断に迷ってしまった時は、「 右に行けば、どうなるのか 」、「 左に行けば、どうなるのか 」、両方を比較検討することが望ましい。
上に挙げた 「 悪いことをすれば、罰が与えられる 」 ことの是非は、「 悪いことをしても、罰が与えられない 」 ことの是非と比較してみればよい。
もし、「 悪いことをしても、罰が与えられない 」 ような世の中なら、いつ悪人に襲われるか、金品を奪われるか、レイプされるか、不安で仕方がない。
誰にも侵入されぬ自宅に安らぎを求め、すれ違う他人に警戒心を持たなくてもすむ 「 秩序ある社会 」 の実現は、大半の人が望むところだろう。
多数決をとるまでもなく、「 他人に悪事を働きたい欲求 」 を 「 罰という名の抑止力 」 で抑えて我慢することに、ほぼ全員が同意するはずである。
では、「 悪いことをした人間には、弁護人をつけない 」 ことにした場合は、一体、どのような弊害が生まれるのだろうか。
まず、本当は無実なのに誤って逮捕された者の 「 冤罪 」 を証明する機能がなくなり、取り返しのつかない失策を招く怖れがある。
次に、犯行そのものは事実だが、そこへ至る経緯に 「 情状酌量 」 の余地があった場合、それを被告に代わって代弁してくれる者がいなくなる。
それに、裁判で被告を訴追する 「 検事 」、量刑を決める 「 判事 」 が プロ なのに対し、弁護する側が素人では、どう考えても アンフェア である。
このような諸事情を鑑みたなら、いくら悪人 ( あるいは悪人とおぼしき者 ) でも、プロ の 「 弁護士 」 をつける権利を与えたほうが望ましいだろう。
ただし、法曹界に携わる者は、その立場が 「 検事 」 であろうと 「 判事 」 であろうと 「 弁護士 」 であろうと、目的は同じでなければならない。
それは、被告に必要以上の罰を与えることでもなければ、犯罪を隠蔽することでもなく、「 真理を追究し、正義を実行して、法秩序を守る 」 ことだ。
検事は、ありもしない証拠を並べて有罪に導いてはならないし、弁護人は、非常識な屁理屈や、嘘、方便を駆使して無罪に導いてはならない。
裁判の様子は傍聴され、大きな事件の場合はすぐに大衆へ知らされるが、その内容は世論に煽動されても、著しく共感を失してもならない。
これらの条件に反する場合は、たとえその立場が 「 検事 」 でも 「 判事 」 でも 「 弁護士 」 でも、正義の履行者とはいえないだろう。
山口県光市の母子殺害事件弁護団への 「 懲戒処分 」 を、大阪弁護士会の 橋下 弁護士 が呼びかけたことに対し、弁護団は損害賠償を提訴した。
お互いに言い分はあるだろうが、争点が 「 業務妨害による損害賠償 」 というところに、同弁護団の姿勢と資質を疑ってしまう。
訴追内容が、たとえば 「 公正な審理を妨げるじゃないか 」 などの、弁護士としての責務遂行に関わる苦情ならともかく、己の利害が争点とは驚く。
この裁判では、同弁護団による支離滅裂な 「 荒唐無稽な弁論 」 に憤りを感じた人も多いはずだが、それも、正義のためなら理解もできよう。
しかしながら、このように 「 己の利害目的が最優先 」 という魂胆が明るみに出た以上、改めて、彼らの資質こそ法廷で問われるべきだと思う。
もしも、弁護士という職業が 「 悪人を容赦すること 」 ならば、冒頭の句が示す通り、それは 「 善人を害する者 」 であり、法秩序の敵でしかない。
特に少年犯罪の場合、異常な再犯率の高さをみてもわかるように、常軌を逸した 「 行き過ぎた弁護 」 は、被告人にとっても災いを及ぼしている。
どのような立場であっても、法曹界に携わる者の倫理観として、それぞれの立場で 「 秩序ある社会の実現 」 を目指さなければ、その未来は暗い。
この際だから、橋下 弁護士 と弁護団が法廷で対峙し、その決着を国民が見届けることは良い機会かもしれない。
たぶん、日弁連などが 「 組織ぐるみで潰しにくる 」 のではないかと思うが、それはそれで、矛盾や問題点が浮き彫りになる良い機会でもある。
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