「 お前は名誉を取り戻した。
俺も名誉ある最期を遂げたい 」
映画 『 ラスト・サムライ 』 より
You have your honor again. Let me die with mine.
The Last Samurai
映画の後半で 渡辺 謙 が 死ぬ間際、トム・クルーズ に語りかける台詞だ。
サムライ とは何か、男らしさとは何か、そのすべてが凝縮されている。
私は信心深いタイプじゃないので、人生は一度きり、生まれてくるのも一度なら死ぬのも一度、だからこそ有意義に生き、有意義に死にたいと願う。
いつの世も、この 「 有意義に生きる 」 という点においては、異論を唱える人が少なく、誰もが自分の生き方に価値を見出そうと努力するものだ。
しかし、「 有意義に死ぬ 」 という点に関していうと、最近は疎かにされがちで、重要に考える人が少なくなってきた感じがする。
些細なことに躓いて自殺を図ったり、若くして無謀な事故で命を落としたり、つまらない犯罪に手を染めて人生を棒にふる人間のいかに多いことか。
世の中はこうあるべきとか、地球の環境保護がどうだとか、周囲の問題はとやかく口を出すくせに、自分の命をちっとも大切にしない人間も多い。
国民投票法案が成立したことから、「 憲法9条が改正されて、将来、日本が軍国化する 」 などと本気で心配している人が多いという。
私自身、けして戦争をしたいとは思わないが、独立国家としての誇りを感じられない現在の憲法を改正することは、大いに賛成である。
もちろん、違う考え方があって良いし、たとえば、幼い息子さんを持つ母親が、「 この子を将来、戦地に行かせたくない 」 と願う心情も理解できる。
憲法が改正されて、日本が集団的自衛権を発動できたとしても、なるべくなら戦争になんぞ加担しないほうが良いに決まっている。
それでも、選択肢を得たいと願う理由は、国際的紛争を調停する役割や、弱者を守ったり、あるいは己の身を守る 「 誇り 」 の問題である。
先般、特急列車の中で若い女性が暴行され、約40名の乗客が救いの手を差し伸べなかった事件に、各ブログで様々な意見が寄せられた。
その中には、「 下手に手を出して、自分が怪我をしたら損だ 」 という記述があったり、その意見に対し 「 卑怯だ 」 という意見もあった。
私からみると、その論争は 「 改憲論議 」 に似ていると思うのだが、先ほども述べた通り、いろいろな意見があってよいと思う。
どこかの国が救いを求めても、自分たちが危険を冒してまで武力を行使する必要はないという意見があっても、けして不思議とは思わない。
そんな輩には、「 リスクを冒しても立ち向かうべき 」 と思うのは、私が男性に生まれてきたことや、体格的な影響があることを認めざるをえない。
唯一、理解できないのは、前述の暴行魔には 「 命を賭して戦うべきだ 」 と言いながら、憲法9条は頭ごなしに反対するタイプの人である。
特に男性の場合、その矛盾は 「 嘘くさい 」 としか思えず、片方では英雄を気取り、片方では見て見ぬフリというのは、どうにも合点がいかない。
女性は別として、男性で憲法9条に反対している意見の大半は、どう贔屓目に眺めてみても 「 器がちっちゃい 」 としか言いようのない理屈だ。
なんでアメリカに協力しなきゃいけないのとか、遠い他国の争いに日本人の犠牲者を出さなきゃいけないのとか、イジイジした話ばかりである。
ならば正直に、「 憲法は改正したくないし、特急列車で女性が襲われていても、私は見て見ぬフリをします 」 という意見のほうが、まだ信用できる。
国民投票法案が成立したといっても、9条を含む憲法が改正をされるとはかぎらないわけで、しかもその決定は3年以上先の話である。
私の理想は、国民の過半数が賛成して改正されることだが、もし反対意見が多くて改正されなかったとしても、特に困るわけではない。
賛成派が多くて改憲されれば、改憲されなかった場合よりも、私の中にある “ 日本人像 ” の評価が上がり、「 尊敬 」 の念が深まる程度の違いだろう。
もし、改憲されても、されなくても、自分の生き方が変わるわけではないし、国民投票という民主的な採決の結果を支持し、それに従うだけだ。
ただ、日本人の男性諸氏に対し、「 卑怯者として生き残ることが、そんなに大事なのか 」 という疑念を残すのは、性分として仕方ないところだろう。
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