「 体験が判断力をつける。 卓越した判断力は苦い体験から生まれる 」
ボブ・パックウッド ( アメリカ上院議員 )
Judgment comes from experience and great judgment comes from bad experience.
BOB PACKWOOD
退くか進むか、右か左か、とっさの判断は誰にも相談できない。
その結果が 「 人命 」 に関わる場合も、その事実に変わりはない。
人はよく 「 備えあれば憂いなし 」 などと言うが、実際のところは 「 危険が迫らないと、備えまで手が回らない 」 ことが多いのではないだろうか。
私の場合も、阪神大震災が起きるまで、災害の恐ろしさを頭では理解していたつもりでも、地震など 「 他人事 」 のように考えていたような気がする。
昨年末は 「 スマトラ地震、津波 」 の影響で多数の死傷者が発生し、目を覆いたくなるような悲惨な状況が、現地から繰り返し報道されていた。
それに対する日本の支援体制や、実際の対応について、あれこれ批判的な意見を述べる人や、空虚な推論を展開する人もいる。
意見を出すのは自由だが、その中には 「 似たような地獄 」 を体験した人は少なく、「 机上論と現場の問題 」 に温度差を感じるものが多い。
阪神大震災で、自身も被災し、血を流しながら働いた消防士がいる。
右も左も地獄絵図の中で、消防士の制服を見るや、「 あそこに生き埋めになっている人がいるから、助けてくれ 」 と、駆けつけた人々が声をかける。
消化中の建物に人がいる気配があり、その場を離れるわけにはいかない。
やむを得ずに、「 近所の人々で協力して、なんとかしてください 」 と断ると、周囲から怒声が起こり、「 あとで訴えてやる 」 と涙ながらに叫ぶ声がする。
周囲の360度から煙が上がり、泣き叫ぶ声と、うめき声がこだましている。
要請を受け、救急車で現地に向かった隊員たちは、目的地に到着するまでずっと、各地で人々に追いかけられ、徐行するたびに車のドアを叩かれた。
赤いパトランプに吸い寄せられるように、重傷を負った家族を運んでもらいたい被災者が、数かぎりなく後を追ってくるのだ。
誰も、「 人命救助という仕事を、疎かに考えている者 」 などいない。
全員を救えない口惜しさに苛立ち、涙を拭いながら目的地に向かう隊員の背中に、「 人でなし 」 と叫ぶ人々の罵声が浴びせられる。
辛いのは、けして被災者だけではなかった。
呼吸も、心音も聞こえなくなった体を引き離し、次の怪我人のもとへ蘇生に用いる器具を運ぼうとすると、遺族から殴られた隊員もいる。
当時、社会党の村山総理が政権を担当していたことから、自衛隊や、海外への協力要請が遅れた点を指摘した人も多かった。
それは、たしかに 「 不幸な事実 」 としては認められるが、村山氏の人命に対する意識が希薄だったとか、おざなりだったとは思わない。
私の大嫌いな 「 自殺企図者 」 や 「 凶悪犯罪者 」 を除けば、自分や他人の生命を疎かに考えている人間など、ましてや総理たるもの考えられない。
何の責任も、プレッシャーもない立場で、スマトラに対する小泉内閣の支援体制を非難する人間の意見など、マトモに取り合う気はしない。
阪神大震災は、関西の人々に 「 防災に関する心構え 」 という課題を残し、あまりにも高い代償を犠牲として、後の時代に 「 苦い体験 」 を与えた。
これが、「 卓越した判断力 」 に結びつくかどうかは、これからの大きな問題になっているはずで、それこそが同時に 「 犠牲者への追悼 」 でもある。
たとえば京阪神では、幹線道路の一部が災害時には 「 緊急車専用 」 へと切り替えられる措置や、諸々の法整備、環境整備が進められている。
災厄が繰り返されても、同じ悲劇を繰り返さないよう、被害が最小限で収まるように、国も、自治体も、企業も、そして個人も、意識改革が必要である。
震災後10年のこの日に、すべての犠牲者に対するご冥福をお祈りすると共に、二度と同じような惨事が起こらないことを祈念する次第である。
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