私のように脳天気な人以外は、そろそろ老後の心配など始めるのだろう。
最近、書店で年金に関する本をよく目にするが、中年層に売れるらしい。
若い人の多くは年金に無関心であったり、あるいは将来的に還付されるという確実な保証がないことで、支払うことに不満のある御仁がいるようだ。
たしかに年金問題については、国会でも 「 絵に描いた餅 」 のような論議しか行われておらず、少子高齢化の中では有効な施策も少ない。
企業の退職金や年金など、不透明な将来への備蓄を拒み、稼げるときに最大限の所得を個人に支払い、各自が計画性をもち運用する手段もある。
ただ、二十年後、三十年後の社会と、自分自身の境遇が計り知れない部分もあるし、世の中には貯蓄の苦手な人もいる。
いざというときに何の保証もないようでは個人も困るし、経済先進国としての誇りを保つには、あまりにもお粗末な話である。
普段、実力至上主義を唱える人であっても、日常生活の場面においては、高齢者に敬意を表すことを美徳と考えることが多い。
たとえば、電車の中でお年寄りに席を譲る行為などがそれにあたる。
真に実力本位主義で考えるならば、それまでに 「 運転手付きの身分 」 になれなかった高齢者の怠慢とし、擁護する必要などないのかもしれない。
実際には、そこまでの成功を遂げる人物などほんの一握りで、ほとんどの高齢者は、国や社会に対して、介護や 「 救済 」 を求める状況にある。
高齢者や社会的弱者に救済の手を差し伸べ、他者との競争には打ち勝つ必要のある実力主義社会を構築するとなると、それは容易ではない。
イラクで人質が解放されたのは喜ばしいことで、尊い人命を金額に換算できるものではないけれど、政府として 「 かなりの出費 」 になっただろう。
一説に伝えられる身代金が支払われていないとしても、家族、政府関係者の渡航費用、病院代、その他もろもろの費用がかかっている。
また、給料の高い役人が勤務時間を費やしたことも、コストの一部である。
報道によると、家族の渡航費用やら病院代の一部などは 「 自己負担 」 を求める動きもあるようだが、全体の費用に比べると微々たるものだろう。
いくら不況で税収が少ないといえども、被害者を窮地から 「 救済 」 しようとするのだから、一部でデモや抗議をされるほど、政府の対応は酷くない。
税金を多く払いたくはないけれど、イラクの日本人を救って欲しいと懇願するのは、「 年金を払いたくないが、受け取りたい 」 のと同じ理屈である。
同胞が苦境に瀕したとき、皆で協力して経済的な援助を施そうとすることに異論はないが、今回のケースはどうなのだろう。
これが、たとえば北朝鮮に拉致された人々のように 「 不可効力的な不幸 」 であれば、快く義援に応じる人も多いはずだ。
しかし、個人的な利益や、自らの信奉する主義主張の達成を目的として、自主的に危険地帯へと向かった彼らには、反発する声も少なくない。
いくら 「 無料だから 」 といっても、むやみに救急車を要請すべきではないのと同じで、個人には 「 事故を未然に防ぐ努力 」 も求められる。
自分もボランティアをした経験があるのだが、どうしても、そういうときには 「 自分は善いことをしているんだ 」 といった潜在意識が浮かびやすい。
それを誇りとして想うこと自体は悪くないが、そのために周囲に対する配慮が疎かになったり、自らを「 特別な存在 」 として思い上がると問題がある。
イラクでの人質に対する支援者の中に、「 善い行いをやらないより、やったほうが良いに決まっている。傍観者は黙っていろ 」 という声もある。
しかし、「 費用対効果 」 というものを考えるならば、今回の一件に関しては 「 やらなかったほうが良かった 」 という見方が正しいように感じる。
犠牲的精神で誰かを救おうとする立場の者が、逆にそれ以上の費用を投じて、国家に 「 救済される 」 というのでは、話の筋道が違ってくるはずだ。
たぶん年金も同じようなもので、皆から公平に徴収したとしても、その恩恵を受ける立場については、かなりの 「 バラツキ 」 が生じるだろう。
簡単な例でいうと、長生きした人と、しなかった人とでは、恩恵の受け方についてかなりの差が発生する。
また、老後も活発に働こうとする人が、支給額を減らされる例もある。
年金の財源を確保することはもちろん重要だが、できるかぎり年金の世話を受けずに済むよう、各人が努力することも大事なことのように思う。
お年寄りも、イラクの人質も、けして 「 国のお荷物 」 ではないけれど、国家による 「 善意の救済 」 に依存しすぎるのは、少し問題がある。
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