Tonight 今夜の気分
去るものは追わず、来るものは少し選んで …

2004年03月19日(金) 素人の限界


日本の諺に、「 百聞は一見にしかず 」 というものがある。

欧米の諺にも、「 Seeing is believing. { 見ることは信じること } 」 がある。


ほぼ同じような意味で使われるが、たしかに、いろんな情報を集めて、知恵を絞って分析したところで、実際に体験しないとわからないことがある。

世の中の森羅万象すべてに精通している人などいないので、皆それぞれに、得意な分野というか、馴染みの深い分野というものもあるだろう。

だから、あまり馴染みのない不得意な話を、断定的な口調でコメントしたりすると、専門家とか、その道に精通している人の失笑をかったりもする。

この日記もそうだが、最近はインターネットの普及により、誰もが全世界に向けて、まるで評論家のような気分で 「 持論 」 を発信できる時代だ。

プロの評論家と違うのは、たとえば、間違った自己主張を述べても、大抵は 「 読み手の暖かい思いやり 」 によって、許してもらえるところだろう。


もちろん、自由な個人日記なんだから、得意なことを書けばいいというものでもないし、不得意な話題に触れてはいけないというものでもない。

ただ、こんな 「 らくがき帳 」 みたいな日記でも、丸二年 ( 気付かないうちに二年経ってた ) も続けていると、それなりに閲覧者はいる。

読者がすべて 「 また、いい加減なことを書いてるなア 」 と、訝しげに読まれているのなら問題ないが、もっと “ ピュアな精神 ” の方もいるだろう。

もし、自分が間違った知識や、偏った意見を述べていたとすれば、それは健全な読者に対する 「 冒涜 」 であり、ちょっとした 「 罪悪 」 でもある。

当然、意図的に 「 嘘 」 を書くつもりはないが、自分勝手な 「 思い込み 」 を堂々と発信しているのではないかと、ときには不安を感じたりもするのだ。


特に最近は、「 白黒ハッキリしない問題 」 も多い。

たとえば、マラソンの高橋選手が五輪候補から落選したことなどは、それが正しい決断なのか、間違った選択なのか、世論も五分五分である。

なかには、もっともらしく 「 高橋選手が名古屋に出なかったのが悪い 」 という意見を述べる人もいるが、それは 「 陸連 」 を知らない人の意見だろう。

以前にも述べたが、この問題は選考基準の 「 本来、あるべき姿 」 に問題があり、現体制での 「 結論 」 については、良いも悪いもないのだ。

つまり、最初から 「 このレースに出て結果を出さなければ合格させない 」 という指標を、そのレースが “ 行われる前に ” 明示すべきだった。


戦争の是非も同じで、世の中が 「 本来、あるべき姿 」 であれば何の問題もないはずが、一部の不届き者によって、そうではなくなっている。

あるべき姿を失った範囲では、正しい選択などあり得ないのではないか。

つまり、戦争に反対でも、賛成でも、イラクに自衛隊が行こうが、行くまいが、それは 「 善と悪 」 ではなく、「 悪と最悪 」 ぐらいの選択なのである。

これを、「 善と悪 」 というスタンスでしか考えないと、「 戦争 → 人が死ぬ → 悪 」 か、「 戦争 → 正義の我が軍 → 善 」 程度の思考に留まり易い。

こういうことは、「 悪と最悪 」 で考えるほうが正しく、無理に正当化しようとすれば、どうしてもそこに矛盾が生じてしまう。


それでも誰もが、「 どっちがマシか 」 という答えを求めていて、苦労をして他人が出した苦肉の策に、ある者は共感し、ある者はケチをつける。

また、よほどの暴君でもないかぎり、大部分は 「 こうします 」 と語りつつ、周囲の反応をみて、審判や評価を仰いでいるのではないだろうか。

そう考えると、素人が限られた条件下で、知り得る僅かな情報を元に時事問題を外野から揶揄しても、ちょっと茶番のような気がしないでもない。

実際、時間があるときに過去の日記 ( 自分の書いたもの ) を読み返してみたが、時事問題について書いたものは、大抵どれも不出来である。

他の人の日記もそうだが、中身の無い意見で天下国家を論じるより、些細でも実体験に基づく話題のほうが、なんとなく読んでみて面白い気がする。






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