キオク
心の中に風が抜ける。
窓から見えるのは半袖のセーラーをまとった女子高生たち。気がつけば通りの一帯は白い色で埋め尽くされていた。
そうか、今日から六月。学校は衣替えなんだっけ。 あれが私の母校の夏服だったんだ。
コーヒーカップをソーサーに戻した私は眼鏡をほんの少しだけずらして、彼女たちの様子を伺う。
たわいのない話題にはしゃぐ声。笑顔は明るく、一点の曇りもない。
彼女たちを見ているといいな、と思う。うらやましいな、とも思う。
私にもそんな時間があったらよかったのに――
私には高校の三年間の思い出がない。
その間の記憶がすっぽりと抜け落ちているのだ。
私が「私」としての記憶は、高校にはいってからの二か月で途切れていた。
運命のあの日。
「私」に何があったのかは、断片的にしか思い出せない。
あの日は両親とケンカをしていた。
大きな声で叫んでいた。
部屋に籠った私。
そのうち火の手が上がって、部屋が煙に包まれて。
部屋を出ると、床に血に濡れた包丁があった。
父が何かを訴えて、懐中時計を渡されて――
そのあとは――思い出せない。
私が次に気がついたのは、三年後だった。
目を覚ましたのはふかふかのベッドの上。
隣りには見知らぬ男がいて、私は交通事故にあったのだと言われた。
私は繁華街の裏道から突然飛び出してきたのだという。そして男の乗る車に接触したのだ。
男はこの事故がバレたら免停をくらうからと言って、私を車の中に放り込み、自分の家まで運んできたのだという。
「嘘だ」
事情を聞いた私は混乱した。
あの日私が見たのは何だったのだろう。あの炎は? 父のあの姿は?
体の痛みより、震えが止まらなかった。
自分が生きていることよりも、記憶がないことにこの上ない恐怖を感じていた。
そこへ男の手が伸びる。無意識の防衛線が働いた私はとっさに洗面所に駆け込んだ。
だが、そこにあった鏡を見たことで、私の精神は更に混沌へと落とされる。
「……何これ」
私は「私」の姿を失っていた。
わたしにとって悩みの種だった一重瞼は二重となり、父親譲りの、少し大きめの鼻は削られていた。
肩まであった髪は背中まで伸び、ゆるい波が広がっている。胸は心なしか大きい。
この三年間で何が起きたのか、本当に分からない。
火の手はどこからあがったのだろう。
何故床は血に濡れていたのだろう。
父は――生きているのだろうか。
それとも、私が――殺した?
「いやあああっ!」
――私は窓からそっと目をそらした。
すっかり冷めてしまったコーヒーに口をつけ、はやる鼓動を落ち着ける。
店内を流れるのはアメージンググレース。
今は亡き歌姫の声が私の心を少しずつほどいてくれる。
記憶を戻したあの日から更に三年が経った。
時間が経つことで新しい顔には慣れてきた。私を轢いた男は思ったよりも律儀で、優しく、恋に落ちるまで時間はかからなかった。
今も一緒に暮らして、この間プロポーズもされた。
でも、空白の三年間を考えると、すぐに答えは出せなくて――
だから私は一歩を踏み出そうと決心したのだ。
空白の三年間をたどるのは怖い。
もしかしたら最悪の事実を見てしまうのかもしれない
でも、ここを越えなければ私は「私」を否定したまま、「私」も父の遺志も殺してしまうのだろう。
そんなのは嫌だ。
私の人生は私のもの、どんな結末でも未来は私自身が切り開く。
父から受け継いだ懐中時計をぎゅっと握りしめると、ゆっくりと立ち上がった。
(使ったお題) 衣替え 懐中時計 交通事故 歌