十分幸福である。
本来、「心の持ち方」そのものが「幸福」だとは思うのだが。 たとえば、「幸せ」と感じていることが「幸福である」という風に。
今年の初めは、息子の中学受験で大変な思いをした。 はっきり言って、これはお勧めではない経験だった。 小六の男の子に、あそこまでのプレッシャーと 勉強量を強いていいもんだろうか、と。 結果的には、第一志望に2次試験で奇跡的に滑り込んだ からよかったが、下の子(長女)には絶対受験はさせない。
長女はテニスを本格的に初めて1年を経過して 突然目覚めた。夏の大会で入賞が相次いだのだ。 彼女の机の上は、カップやメダルが並んでいる。
妻は家計を支えるために働いている。 「家を建てたい」らしい。
私は、何年かぶりにテニスに再び目覚め、 実業団の試合にも、単複出場している。 体重は去年より7KG減り、ウェストもー7cm。
内面的には、仏教特に初期のものに熱中していたが 消化不良気味。 あまりにも厭世的ではないかと思われ、現代に活かすのは アレンジが必要かと。とても僭越だけど。
人間、「何も考えずに物事に集中しているとき」が一番 幸せじゃないでしょうか。 あとは、家族のダンラントカ淡い感じの幸福感とか。
激しい刺激に身を任せ、興奮したり、陶酔したり というのは、実は「苦」である、と若い坊さんが 本で書いていらっしゃいました。
悪いことをすると、罪悪感を感じる(心が荒む)し いい事をすると、気分がいい。 善因善果・悪因悪果ってそういうことかもね。
|