内田先生がBlogで「日曜日だから剣でも抜いてみよう」と題して書かれていた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・引用・・・・・・・・・・・・・・ 剣の操法でいちばんたいせつなことは、「剣を道具的に扱わない」ということである。 矛盾した言い方だが、剣にしても杖にしても、それぞれの道具にはそれぞれに固有の「生理」がある。動きたい線があり、動きたいタイミングがある。人間の身体は道具の動きを邪魔しないように、いわば道具の「通り道」をぎりぎりに空けるように動かなければならない。 剣を「自由」にさせるのである。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・引用終わり・・・・・・・・・・・・
鬼島太鼓での古武術を応用した太鼓奏法の杖術の様子
跌踞(ふきょ)から抜刀する時も切ろうとか抜こうという意識が腕にあるかぎり速さも出ないし美しくないと思う。
太鼓演奏で言えば、太鼓の皮の動きと内田先生が言われる「通り道」 と皮の振動が同じだと思う、太鼓の皮が撥を弾いてくれているのを無理に殺してしまっている・・・撥の通り道があると思うのだ、それを知らない太鼓打ちの撥の軌道は必ず乱れているはずだ、そして音も。
これは川崎太鼓仲間「響」の方が投稿しているコメントより ・・・・・・・・・・・・・・・・・・引用・・・・・・・・・・・・・・ 職場の先生が、前任校に呼んだ和太鼓奏者が「太鼓を叩くときは、手首を動かしてはいけない」と言ったのを聞いて(和太鼓は音楽じゃない!スポーツだ!!)と思ったと言っていました。 (どうも大太鼓の正面打ちをやった時のことらしいのですが・・・) 私は、それは違う!!!と言いましたが、ぜひ響のコンサートで和太鼓は音楽だと感じてほしいと思いました。
みんなで心を1つに、気持ちを合わせて作り上げるお囃子、クレッシェンド・ピアノ・フォルテが感じ取れる「清流」・・・等々。 きっと「太鼓は音楽だ!」と認識を新にしてくれると思います。
・・・・・・・・・・・・・・・・・引用終わり・・・・・・・・・・・・ 未だにこういう輩が太鼓の指導者として通用しているのが、和太鼓界の不幸の一因だ日本の伝統芸能が伝えることからまったく離れている、「汝の足下を掘れ!」
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