「君が代」の論議はさて置き、卒業式や入学式、相撲、オリンピック、ワールドカップの表彰式にも演奏されるこの曲、この歌。 まーフランス、イギリス、アメリカ、ポーランド、ロシア等の外国の国歌の歌詞に比べれば、例えば・・・敵の血潮を!とか闘い取るのだ!とか物騒な内容は「君が代」にはなにひとつない。 君が代の歌詞は、古今集巻第七「賀歌」の題知らず、よみ人知らずの三四三番。
「君が代」の歌詞の原型は、十世紀の<古今和歌集 巻第七 賀歌>に「我が君は千代にやちよに さざれ石の巌となりて苔のむすまで」としてみられ、十一世紀の<和漢朗詠集>下巻「祝いの部」には今の「君が代」の形で見られる。近世には、慶祝の歌として、江戸初期の流行歌だった隆達節や琴曲、地歌、長唄などに歌われ、特に薩摩地方では琵琶曲蓬莱山や民俗芸能の歌詞として広く親しまれていた。 で日清戦争の後、北京での義和団の乱、明治33年(1900〜)義和団に脅威を感じた列強八カ国(イギリス・ロシア・ドイツ・フランス・アメリカ・日本・イタリア・オーストリア)は、連合軍をつくり、義和団を攻撃した。⇒篭城55日に渡った義和団の乱は終結した。
この連合軍が紫禁城近くで国歌吹奏の交換式があった時、慌てたのが日本軍の大山巌司令長官だった、既に軍楽隊はあったのだが、大急ぎで国歌を作ったのだ、当時の祝い目出度歌だった。
その時演奏された楽譜
君が代は。ちよにやちよに。さざれいしの。巌(いはほ)となりて。 こけのむすまで。うごきなく。常盤(ときは)かきはに。かぎりもあらじ。
きみがよは。千尋(ちひろ)の底(そこ)の。さざれいしの。鵜(う)のいる磯(いそ)と。 あらはるるまで。かぎりなき。みよの栄(さか)えを。ほぎたてまつる。
この時の演奏の「君が代」はメロディを借りたのがおそらく「サミュエル・ウェブ一世」の作品であろうと思われる。 このサミュエル・ウェブ一世は歌曲の作曲家で1760年代にロンドンで流行した「キャッチクラブ」の歌を作曲していた。 貴族と紳士のための「キャッチクラブ」は世俗的な歌と卑猥な会話を楽しむ男性のためのクラブであったが、その退廃的な言動が非難の的となり、やがて健全な「グリークラブ」という組織に移行した。現在の日本で男性合唱団の代名詞として使われている「グリークラブ」という名称の発祥である。
この時の「君が代」
http://ten.tokyo-shoseki.co.jp/bunko/kimi.ram 宮内庁雅楽部と政府の西洋音楽取得委員会の国歌制定に対する敵対心から生まれた曲で、皆さんはどう思いますか?
色々な国に行って国旗や国歌を聞いてその意味を知ったとき、「君が代」は落ちついたのんびりした曲だと思う。
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