八ヶ岳で夜中ずーと星を眺めていると、ふと違う次元に亡くなった祖父母や友がすぐ身近にいるのではないかという想いに囚われる。 現代科学が解明している宇宙観と古代エジプト、中国、インド、マヤ、オーストラリアのアボリジ−の伝承と酷似している、宇宙空間に散らばる物質は条件さえそろえば生命を誕生させる場としての、ある意味での"愛""慈悲"に満ち溢れているような気がする。 僕が子供の時、伊勢湾台風による増水で溺れた時、確かに「はやく戻りなさい」という(実際は鹿児島弁だった)声を大きな川を船で渡ってきた立派な老人と西郷隆盛のような人から言われた。 その頃の僕は自閉症で言葉が単語を繋ぐぐらいしか出来なかったのに、今でもその記憶は見てきたかのように鮮明に残っている。
現代の宇宙物理学と量子力学に生命の因果論が加わってくると、面白いのではないかと常日頃から思うのだけれども、生命の終焉後の事はミミズの事でさえ解っていない。
星のゆりかご(星生成領域「S106」(はくちょう座の方向約2000光年) 何億年もかかってこの地球に届く光、超新星爆発による星の死は必ず新たな星を誕生させている、しかし、このような天体の誕生のしかたは、依然として謎のままという。 そして僕の記憶は卵型の乗り物に向かって、子供(赤ちゃん?)が並び、何か画像のようなものを見て母親を選んでいたのだ、それを案内していたのは古代ギリシャの白い服を来たお姉さんだった。そしてその卵型の乗り物は眩い光の中に物凄いスピードで飛んでいった、そして暗闇に突入する刹那きらめく星星を見ていたのだ。 これは僕が言葉を覚えて色々勉強したり経験したり見聞きしたものに、良く似た物事があったので、今こうして説明している。 でも5歳の時はその記憶を絵に描いたり、ピアノをめちゃくちゃ叩いて音を出して表現していたように思えるのだ。
死は休息のようなものであって、けして恐れることではないと感じている。今世界で起ろうとしている戦争や起っている殺人は、この大宇宙のリズムからは狂っているように思われる、しかしその当事者は人の為であり正義であり愛の行為であると信じて疑わない。 僕が三途の川に立っていたとき、確かにうな垂れて寂しくノロノロと歩いている集団を見た、暗い世界にその足取りは重く、顔の表情までは覚えてないが、皆同じような顔をしていた感じがする、その時・・・あそこには絶対行きたくないと思った・・・ ということはその人達の眷属(グループ)は宇宙に存在するブラックホールのようなものなのか?解らないが、直感的にそう思う、とにかく暗くて寂しい世界なのだ、うまく説明できないのけれども、そういう暗黒の世界に所属している人達もいるような気がする。宇宙にもそういった場が存在している。
川のほとりでその老人達に今度は別の惑星で音楽するのだという事を言ったような気もする、その時はるか向こうのお城から、壮大で説明できない綺麗な音楽が聞こえていた、それは宇宙のシンフォニーとも言えるような音楽だったのか・・・
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