Internationales de la Guitare Festival in Montpellier 2001 Shinchanはこのモンペリエで開催される、国際音楽祭に招聘されました、丁度Shinchanが所属する日本音楽集団がプラハの春音楽祭に招聘されているので、それと合わせてパリ日本館、Shinchanがお世話になっているモロッコの在日本大使館のS大使からの要請で、モロッコ公演の一連のプロデューサーを引き受ける事になったのです。
日本音楽集団のモンペリエでのポスター
Shinchanはメンバーより約1週間前にモンペリエに入りました、6月とはいえもう夏の空で、サマータイムです。
今回出演するサリフ・ケイタ氏のマネージャーとも会いました、モンペリエは地中海の近くで、モロッコ、スペインなどにも簡単に行ける場所です、Shinchanはバスで地中海の海岸へ行きました、20分で着きます。
海岸に寝転がり、沖では子供達の為のヨット教室が行われていました、少し肌寒かったですが、元気にワンちゃんと一緒に泳いでいる子供もいます。
Shinchanはビールとハンバーガーを買い、オペラのMDを寝転がって聴きました、ワーグナーの楽劇「タンホイザー」をここ南仏で聴くのもおつなものです。
音楽祭の総裁はTalaat Singabyさんで、元モンペリエ総合大学の歴史経済学の教授です、エジプト出身なのです、彼とは武士道について語り合いました、又空手の有段者でもあります。日本音楽集団の音楽監督田村氏とも話しははずみました。
古代ローマの水道
Shinchan自ら契約書を作りお互いにサインをして、本番を迎えました、勿論大成功で・・・出演料はフランス政府の補助金の振りこみ後に日本音楽集団の事務所に振りこむという契約だった・・・のですが・・・約2年かかって完了しました、その間フランスの文化省に問い合わせたり、在パリの日本文化会館に問い合わせたり、全てフランス語でした・・・作家の村上春樹さんが「やがて悲しき外国語」というエッセーを書かれていますが、きちっとした文章をメールで送るのに5時間ぐらいかかりました、ほとほとフランス語の公式文章にはイヤになりました・・・やがて悲しき外国語とはこのことだったのです。
その間フランがユーロになり、日本の銀行とも揉めました、これはやがて悲しき日本語ですね・・・細君には「あなたは帰国子女のようなもんだから、蝙みたいなものよ」なんて言われました。
コメディー広場総合大学もありコンセルヴァトアールもあり学生が多く、巴里よりはのんびりしていますが、気候がよく人々も親切です。
コンサートが行われたモンペリエオペラハウス
Talaat Singaby総裁は言った「太陽は日本から昇り、エジプトのピラミッドの
彼方に沈む、そしてモンペリエでも彼は見ている 」
・・・やがて悲しき外国語なり・・・