Hey Jude, don't make it bad
take a sad song and make it better
Remember to let her into your heart
Then you can start to make it better
ラジオやカフェからさんざんビートルズの曲が聞こえてきます、そしてソルヴォンヌのカフェでも学生がヴェトナム反戦や東西問題などについて論戦していました、Shinchanはそういった哲学や政治関係のフランス語理解力が乏しく、特に'68年のパリ五月革命の事に関しては、全くちんぷんかんぷんでした。それとビートルズの音楽ではリンゴスターのDrumsが下手糞で、途中リズムが走ったり、音色が汚かったりしてShinchanは好きになれませんでした。
それを少しでもパリ大学の連中に言いでもしたら、凄い攻撃を受けるのです。
「君は'68の五月革命を知っているのか?」
一九六八年は世界でも日本でも激動の年だった。一月・東大紛争のはじまり。二月・成田空港(東京国際空港)反対運動、金嬉老事件。三月・南ベトナムのソンミ村でアメリカ軍による村民大虐殺事件。四月・キング牧師暗殺。五月・フランスの五月革命。六月・ロバート・ケネディがロサンゼルスで狙撃され、翌日死亡。小笠原諸島が日本に正式復帰。十月・スエズ全域でアラブ・イスラエル戦争。国際反戦デーに全学連が防衛庁や国会構内に乱入・新宿駅に放火(新宿騒乱事件)。十二月・三億円強奪事件、米宇宙船アポロ八号による世界初の月面テレビ生中継。
「君はコダ―ルの Loin du Vietnam(ベトナムから遠く離れて)を観たか?」
ジャン=リュック・ゴダール
60年代後期からはもっぱらが政治映画。男女が政治について語り合う「中国女」を始め、メッセージ性がことさら強くなり、ゴダール自身の考えが、役者の口を通じて突然に発せられるようになる。毛沢東主義に傾倒していたゴダールは、五月革命のとき、68年度カンヌ映画祭の会場で造反、セレモニーを中止させたこともあった。それがきっかけとなり、ゴダールは商業映画から撤退、純粋にプロレタリアの立場に立って政治映画を撮るため、ジガ・ベルトフ集団を結成し、ますます破壊的な映像革命を巻き起こしている。
'68というとShinchanは中学生だよ、そんなの覚えてる訳ないし、音楽の勉強や練習に忙しくて、大学紛争もその意味なんて全然解ってなかったのです、それがパリに来て普通大学の学生と付き合うようになって、いきなり難しい話を振られるのだからたまったもんじゃない。
「君はヴェトナムに行くのだろう、同じアジア人として何も感じないのか?」
なんて言われ、憂鬱な気分になったのです、ここんとこ解剖学や軍事訓練などと音楽から離れているのが原因だと思って、カフェで酒を飲んで論議するのを止めました。でも当時の良い風習フリーセックスは大いに歓迎して、突き進む事になるのです。
ジャン=リュック・ゴダールの「ベトナムから遠く離れて」
67〜68年頃にピークを迎えるこのヴェトナム戦争は、TVで伝えられた初めての戦争だったこともあって、世界中に反戦運動の嵐を巻き起こし、それは当時の反体制運動の主要な流れのひとつとして大きな盛り上がりを見せた。68年には、ケネディから戦争を引き継いだジョンソンがついに大統領選挙への出馬を断念したほどである(もちろん同年のいわゆる「テト攻勢」で軍事的敗北を喫したことが決定的なきっかけだが)。とくに、この戦争で映像メディアが大きな役割を果たしていることを意識した映画作家たちが、映画という自分たちの表現手段を使ってアメリカ帝国主義への批判とヴェトナム人民との連帯を表明しようとしたことは、歴史上、また映画史上、きわめて重要な出来事と言えるだろう。その成果こそ、「ベトナムから遠く離れて」(67年)にほかならない。クリス・マルケルの呼びかけに応え、(映画のクレジット順で)アラン・レネ、ウィリアム・クライン、ヨリス・イヴェンス、アニェス・ヴァルダ、クロード・ルルーシュ、ジャン=リュック・ゴダールがフィルムを持ち寄り、マルケルの総編集のもとに出来上がったこの映画は、視点や語り口においてきわめて不均質でありながら、いや、それゆえにこそ、ヴェトナム戦争という大きな出来事が映画界に与えたインパクトの広がりと深みを如実に示している。そのなかでも、われわれはとくにイヴェンスとゴダールの二人に注目したい。結論的に言うなら、旧左翼的で直接的なイヴェンスと、新左翼的で媒介的なゴダール、その両極端の出会い(損ね)の場となっているところに、「ベトナムから遠く離れて」のひとつの面白さがあるのではなかろうか。