Seakの日記
日々感じたことを書き留めていこうと思っています。

2006年12月27日(水) 恵まれた生活

久し振りに、生活のことを書いてみることにする。「生活」と銘打っておきながら、まだ就職してから一度も生活のことを書いていないことに気付いたからだ。だいたいいつも通りの生活だったので、モデルケースとしてはちょうどいい1日だったと思う。

今日もいつも通り、朝の7時半に起きた。いつものように、PHSにセットした目覚ましだ。就職するまではひどく寝起きが悪かったが、就職してからは特に問題なく起きられるようになった。就職すると変わると言うが、本当に変わるものだ。相変わらず夜の方が目の冴えるのは同じだが、それでも、完全に夜型人間だった僕が、朝、スッキリ目が覚めるというだけでもずいぶん変わったものだ。大学にはまじめに通っているつもりだったが、やっぱり意識が違うということだろう。

その後、母を起こしに行った。母は、僕の朝食をつくったらそのまま寝てしまう。だから、申し訳ないと思って、起きないときにはあえて起こさないようにしていた。しかし、起こしてくれた方がいいと言うので、甘えることにしてしまった。僕ももう25歳なのだから、そのあたりは自分で何とかすべきなのだろう。本来は。しかし、実家暮らしの人は分かると思うが、実家で自分の食事を用意するってのは、一人暮らしにはない面倒くささがあるものだ。あらゆるものを母が管理しているので、下手に手を出せないのだ。まあ、言い訳だが。

そんなこんなで、7時50分くらいまで布団の中で粘って、それから自分の部屋で食事をした。食事は、部屋までもってきてもらってしまった。リビングが空いていればリビングで食事をするのだが、どういうわけか、リビングでは父が寝ているのだ。そして父は、変則的な生活を送っているので、いつもこの時間にはまだ起きていないのだ。今は年末で休みなのでなおさらだ。父の会社はかなり大きな会社のようで、20日くらいから年末の休みが始まっていた。何ともうらやましいものだ。ちなみに僕はと言えば、12月29日から1月3日までだ。まあ、多いわけではないが、一般的だろう。そう言えば、彼女の会社の休みは29日から2日までで、しかも31日も出勤らしい。休みが少ないと言ってぼやいていた。

のんびり食事をしながら、適当にメールを読んでいた。すると、なんだかんだで8時半くらいになったので、家を出ることにした。8時半だとギリギリなのだが、何時に朝食を食べ始めても、いつも8時半になってしまう。もう、そういうリズムが身についてしまったのだろう。僕はまだ新入社員なので、もっと早く行くようにしたいとは思っているのだが。

家を出たのは、8時40分頃になってしまっていた。昨日は大雨だったが、今日は打って変わって、暖かくて晴れ上がった青空だった。僕はクロスバイクにまたがると、会社へ向かった。

先々週の火曜日に、僕は事故を起こしてしまった。傘を自転車の車輪に突っ込んで転んでしまったのだ。小雨が降っていたのだが、傘をさすほどではなく、僕は傘をささずに自転車に乗っていた。そして走っていたら前から車がやってきて、僕は避けようとして、傘のことを忘れてしまったのだ。気付いたら僕は、180度回転してすっ飛んでいた。ついでに自転車も倒れ、その自転車が車に当たってしまった。修理費は何と、73000円だそうだ。それを先週の火曜日、よりにもよって誕生日に支払ってきた。車というのは、何ともお金のかかる乗り物だ。

そんな事故があったおかげで、僕は少し慎重に走っていた。それでも、川沿いのサイクリングロードを走り、団地の横を抜け、住宅街を抜けて、会社の側の駐輪場までは10分程度で着く。この近さが、就職を決めた大きな決め手だったのだ。

結局、着いたのは定時である9時の5分前である、8時55分だった。あと10分くらいは早く着きたいものだ。

仕事の内容は、ウェブアプリケーションの作成だった。入社してからずっと、VB.NETのアプリケーションを作っていたが、最近になって、Javaによるウェブアプリケーションの開発へと回されたのだ。僕はやはり、VBよりJavaがいいし、Visual StudioよりEclipseの方が好きだ。オープンソースとか、ああ言った文化が好きなのかもしれない。僕には、オープンソースのコミュニティに参加するだけのスキルはあるのだろうか。スキルがあったとしても、時間がないかもしれない。

昼は、初めはうどんを食べようと思ったのだが、会社の人を見かけたのであわててその店を離れて、牛丼屋へと向かった。会社の人と一緒でもそれほど抵抗はないのだが、ちょっと漫画の立ち読みをしたかったのだ。高校の頃からさんざん漫画の立ち読みはしているが、いくら読んでいてもまったく飽きないものだ。いったいなぜなのだろう。何がそんなに魅力なのか、自分でもよく分からない。ただ、とにかく現実を忘れられるのが好きだ。忘れたいほど現実がつらいわけではないが、それでも、まったく違う世界へ入り込めるというのはとても楽しいものだ。

午後もそのまま、アプリケーションの開発をしていた。ちょっと関係のないウェブページを見たりもしていたが…。オープンソースに関する論文の日本語訳だったので、まったく関係ないわけでもなかった。しかしまあ、今日明日に仕事に直結するようなないようではなかったので、やはり関係はないと言えるだろう。

定時は17時15分頃なのだが、その10分くらいあとに、女友達からメールが来た。その友達は僕の先輩の彼女なのだが、その先輩と僕の彼女とその友達と僕と、4人で忘年会をやろうという話が持ち上がっていたのだ。そこで、その話し合いをしたいから、メッセンジャーで話をしよう、というような内容だった。そんなこと事前に連絡を取らなくても、どうせ僕らは4人とも、メッセンジャーは起動していると思うのだが。僕の彼女は、僕とつき合うまでは、全然メッセンジャーを使っていなかったらしい。以前、大学を卒業するときにメッセンジャーのアドレスを教えてくれたのだが、そのときも、アドレスを教えてくれたきり、全然メッセンジャーを使っていなかったらしい。

その後、またしばらく立ち読みをしていた。すると、父から電話がかかってきた。何でも、プリンタで印刷ができないらしい。僕は、立ち読みを中断して、家に帰ることにした。

家に帰って調べてみると、Print Spoolerサービスが停止していた。ついでにComputer Browserサービスも止まっていた。余計なサービスはすべて止めようと思っていたのだが、以前、間違って必要なサービスまで止めてしまったようだ。Print Spoolerが止まっていると印刷ができなくなるし、Computer Browserサービスが止まっていると、ネットワーク上の他のコンピュータを参照できなくなる。必要なさそうに見えるが、うちではルータを通して父のPCとネットワーク接続しているので、ファイルのやり取りをしようと思った場合には必要なのだ。PCは双方とも1000BASE-TXに対応しているので、ルータさえ1000BASE-TXに対応してくれていれば高速でファイルのやり取りができるのだが、残念ながら、ルータは100BASE-TXにしか対応していない。

そんなわけで、必要なサービスを起動し、父の年賀状を印刷した。それから食事をして、またPCのところに戻ってきた。自宅にいるときは、食事をしたり風呂に入っていたりしない限り、大抵はPCの前に座っている。我ながらひどい生活だが、テレビを見てもおもしろくないし、PCと一言で言ってもやることはいろいろあるし、何より彼女と連絡を取るにはPCが一番便利で安いので、結局、PCを使うことになる。

しばらくするとメッセンジャーに4人ともログインしてきたので、忘年会の話をすることにした。どうやら、ネットカフェで落ち着くことになりそうだった。忘年会と言っているのにネットカフェが出てくるあたりはさすがとしか言いようがない。まあ、お金がなかったりもするわけだ。飲み屋だとかなりお金がかかってしまうし…。

いろいろ話していたのだが、先輩とその彼女に圧倒されて、それに何より、なんだか異様にやる気がしなくて、僕はダラダラと痴漢男の漫画版を読んでいた。mixiの知り合いの日記で紹介されていたのだ。まだつきあい始めて1ヶ月程度なのに、すでに冷めてきているのはどうしたものなのだろうか。しかも、4年前からずっと好きだった人で、以前は寝ても覚めても彼女のことしか考えられないほどだったのだ。それが、ようやくつきあえるようになった途端、この状態だ。我ながら、なんだか情けなくなってしまう。いいことが続きすぎて、幸せになれてしまったのかもしれない。あるいは、恋愛というのは、そうやって落ち着いていくものなのかもしれない。

分からない。ずっと側にいたかったはずなのに、いざそうなったとき、僕はとまどいを抑えきれない状態になっている。これまでずっと、人に好かれたことなんてなかったのが問題なのかもしれない。追うことはあっても、なにもせずに好きでいてくれる人なんていたことがなかったのだ。僕はずっと追い続けたかったのかもしれない。それこそが、僕にとっての恋愛だったのかもしれない。そして、追いかける必要がなくなってしまったから、それはもはや、僕の知っている恋愛ではなくなってしまったのだろう。だからきっと僕は、未知の人間関係にとまどっているのだ。明らかなのは、彼女が去ってしまったら僕は悲しいということだ。実感は湧かないが、それは間違いないだろう。そう思うのになぜ、僕には実感も危機感もないのだろう。まあ、感情的な部分なんて、なかなか自分の思い通りになるものではないだろう。

これからどうなっていくにせよ、きっといい方向へ向かうに違いない。そう思っていれば、きっと事態はそう悪くならない。もっとも、僕はこれまで、人生はずっと悪くなるばかりだと思ってきた。それなのに今、僕は幸せな人生を過ごしている。文句のつけようがないほど恵まれた人生だ。もともと物質的に恵まれていて、何より、やりたくないことをやる必要がほとんどない生活だった。その上さらに、恋人まで現れたのだ。なにも望んでいなかったのに、僕は、望む以上の生活を手に入れてしまったのだ。だから、意欲と未来とは、直接は関係がないのだと思う。例え意欲がなくても、運さえよければ、その人には幸せが訪れるのだ。あとは気の持ちようだろうか。僕と同じ待遇でも、不幸だと感じる人はたくさんいることだろう。それでも幸せだと感じられる心の持ちようが、幸せを得るには大事なのではないかと思う。

それにしても、望むものがないというのは、これ以上ない幸せではあるが、同時に不幸でもあるような気がする。現状を変える必然性がまったくないのだ。なにもしないことが最善であり、あえてするべきことなど何もないのだ。

自分自身の価値観を考えてみると、実はマイナスの部分に根ざしたものであることに気付いた。余裕があるのが好きだと思っていた。しかしそれは違った。余裕がなく、忙しいのが嫌いなのだ。知性的なのが好きだと思っていた。しかし、実際は知性の欠けた様子が嫌いなのだ。僕は、もっとはっきり自分をとらえ、そして、嫌いということではなく、積極的に好きだと言えることを見出していくべきなのかもしれない。


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