2004.9.16
「一般」だとか「普通」だとか「常識」というものは、結構分かりづらい。誰もが当然としていながら、それが「当然」であるために明確に決めていないからだ。
ここで、日本の文化について考えてみた。日本の文化とは何か。日本文化に関する有名な本として「菊と刀」という本がある。それこそ「常識」かもしれないが、第二次世界大戦中のアメリカによって行われた、日本に対する調査レポートだ。具体的な内容は知らないので偉そうなことは言えないのだが、内容は優れているのだと言われる。
電車の中は、とてもよく日本人の気質が表れているようだ。例えば電車の中で寝られるのは日本だけで、他の国ではみんな警戒して眠るなどとんでもないと言うのだ。また、携帯電話を白い目で見られるのも日本だけのようだ。特に韓国あたりでは、電車内の携帯電話に対してまったく抵抗がなく、みんないつも携帯電話で話しているらしい。
だから他の国と比べれば日本が分かる、とも言える。しかし、これは外国を見なくても、日本の電車の中で携帯電話を使う人を見るだけでも分かる。そういう人を見ると違和感を感じるではないか。つまり、そういう人は電車の中という社会において異分子なのだ。
この世の中には、いろいろな人によって構成されたいろいろな社会がある。その社会の性質は、なかなか知ることが難しいだろう。しかし、その性質を知る一つの手段として、例外を知るということがあると思う。常識を知ることと比べて、禁止行為を知ることはたやすい。ルールとして明文化されていたり、マナーとして人から教えてもらったりしやすいからだ。だから、違反とされていることを知ることで、その社会の性質を知ることができるのではないだろうか。電車の中の社会であれ、学校の社会であれ、職場の社会であれ、ネット上の社会であれ、オンラインゲームの社会であれ同じことだ。
ただ、違反を知ることで社会の輪郭を知るよりも、経験を積み重ねて感覚的に理解する方が自然なのかもしれない。そう考えると、いろいろな社会を知ることはコミュニケーション能力を高める上で役に立つのかもしれない。多くの社会を知っていればそれだけ自分の中に類型を得られるわけで、違う社会に接したとき、その類型を適用すればある程度違う社会を理解できるのではないかと思うのだ。なぜなら、人は多くの場合複数の社会に属しており、自分の既知の社会に、自分の知らない社会の構成員が属していることも珍しくないからだ。そうであれば、彼らを通して未知の社会の知識を得ることができるだろう。例えば、インターネットの社会には老若男女、さまざまな人が存在する。もちろん、若い人が多いと言った偏りはあるだろう。それに何より、PCに対して抵抗のない人しかいないというのはかなり大きな偏りだと思う。それはそれとして、その中には社会人も多くいるわけだから、彼らを通して少しは社会人の事を知ることができる。ネット社会の特質として、参加者が比較的平等ということがある。実社会での立場が、ネットでは関係ないのだ。特に匿名の場合はそれが顕著だ。そうすると、実社会ではありえない、社会的地位のある人との同じ立場に立った会話が可能なのだ。同じ社会に属さなければ得られない知識は多いだろう。だが、違う社会に属するからこそ得られる知識もあるわけだ。
まあ、いくら知っていても、その知識を使いこなせるだけの、最低限の素養が必要になるわけだが…。それぞれの社会で必要になる最低限の技術は、自分で身に付けるほかにないだろう。